宋史卷三百四十八 列傳第一百七 石公弼

石公弼、字は国佐、越州新昌の人。進士に及第し州県官を経て御史中丞・兵部尚書に至った。蔡京の専横を執拗に弾劾し続けたことで知られ、附伝の張克公と共に大観年間、蔡京の罪状数十条を上奏して罷相に追い込んだ。

年表(1件)
  • 大観2年1108年御史中丞となり蔡京の罪状を数十条上奏し京を罷相させる

出自と蔡京弾劾

  • 石公弼、字は国佐。越州新昌の人。進士に及第し衞州司法参軍として、放牧馬が民田を荒らした事件で「禽獣が人の食を食い主が傷つけるのは已むを得ぬ」と圉者(牧夫)を無罪と主張し、後に来た慮囚使もこの判断を支持した。獲嘉県での傷害致死事件でも死因を精査し冤罪を防いだ。
  • 章惇の招きを人柄を理由に断り、漣水丞として供奉高公備の綱船溺没事件を調査し不正な着服殺人を暴いた。宗正寺主簿として朝廷の直言の少なさを批判、監察御史に抜擢された。三舎法下の告訐の風潮を戒め、執政・近臣の子弟による恣意的な官職占有を是正する法整備を求めた。
  • 左司諫として東南軍政の弊(実質的な兵力の空洞化)を予言、後に睦の盗(方臘の乱)で的中した。矫詔(偽の詔)の不正を糾す制度整備を求めた。蘇杭造作局の擾民を批判し進奉の縮小を実現した。蔡京とは元は親交があったが立場が異なり、太常少卿、起居郎兼定王嘉王記室として恩沢の受給を辞退した。
  • 大観2年(1108年)御史中丞に拝命、元豊庫の絹帛の不公平な分配を返上し、水官趙霆の失策を弾劾し霆は貶された。京西の税増徴の不当を糾し詔で罷めさせ、蔡京の罪状を数十条上奏し京は罷相した。冗官の削減、京師茶事の戸部移管、市舶の転運司移管を実現した。京が相印を辞しても実録編纂を通じ京師に留まる意図を糾し、星変を機にさらに追及、ついに京は杭州に出た。
  • 劉逵が政を握った際もその紹述廃止・元祐邪党起用を批判、兵部尚書兼侍読として崇寧以来の生事・開辺・興利・繕役の弊が飢饉・農桑荒廃を招いたと論じ休息を求めた。張商英が執政に引こうとしたが何執中・呉居厚に阻まれ、樞密直学士・知揚州として盗賊(亡命社と自称する集団)と江賊を鎮圧した。述古殿直学士・知襄州を経て蔡京再輔政の際、罪を着せられ秀州団練副使・台州安置となり、赦を経て享年55で没し3年後に復官した。元は公輔と名付けられたが同名を避け公弼に改名した。

張克公――蔡京批判の同志

  • 張克公、字は介仲。頴昌陽翟の人。大観年間、監察御史から殿中侍御史に進み、蔡京再相に際し石公弼と共にその罪を論じ京は罷免された。克公は起居舍人、中書舎人、右諫議大夫に進み、京がなお京師に留まる中、星変を機に再度その隠慝を暴いた。京致仕後、張商英が相となり鄭居中との対立で克公は兵部侍郎から御史中丞に転じ、堂吏の訴訟を商英の罪として弾劾する疏を10通上げたが商英が罷免され京が再び召還されると克公は追撃を止めなかった。徽宗はこれを知り吏部尚書に転じさせ、京は銓綜の不備を持ち出し、克公も知貢挙事の不正を摘発したが帝は問わなかった。吏部で6年務め没し、資政殿学士を追贈された。