宋史卷三百四十八 列傳第一百七 黄葆光

出自と蔡京への徹底批判

  • 黄葆光、字は元暉。徽州黟の人。科挙不第の後、高麗使者随行の功で官を得、吏部銓試で第一となり進士出身を賜った。徐州司理参軍から太学博士、秘書省校書郎、監察御史・左司諫に進み、三省吏の過剰な昇進・待遇の10の弊害を上奏、徽宗は即座に是正を命じたが、蔡京はこれを恨み御筆で「豊亨豫大の時に衰乱の策を行うのか」として葆光を符宝郎に左遷させた。
  • 帝はその忠を思い直し翌年侍御史に復した。遼から帰順した李良嗣(後の趙良嗣)の平夷書について「凶悪な逃亡者の献策を信用すべきでない、秘府に置くのは不適切」と反対した。君臣の分の重要性を「君は天のごとく尊く臣は地のごとく卑しい」と説いた。
  • 崇寧以来増えた朝士の兼局を批判し、蔡京がわざと全廃を主張して士大夫の怒りを煽ろうとしたのに対し、葆光は「礼制局・製造局等の冗員を段階的に削減すべき」と穏当な提案をした。政和末年の旱害に際し、帝の慈徳と臣下の応答の乖離、蔡京の分不相応な奢侈、鄭居中・余深の力不足を指摘する疏を上げ、京の権勢に朝廷が沈黙する中、独り攻め続けた。
  • 京はこれを恨み昭州知事に左遷し、さらに機密漏洩の罪を着せられ昭州安置となった。京致仕後、職方員外郎、知処州として方臘の乱後の民生回復に努め享年58で没し、州人に祀られた。鄭居中の門下から出た経緯で蔡京への批判は徹底したが、他の面では時流に迎合し、神霄万寿宮の造営に反対した官吏の摘発などで批判も受けた。