宋史卷三百四十八 列傳第一百七 張汝明

出自と誠実な官吏としての生涯

  • 張汝明、字は舜文。廬陵の出で真州に移住。兄の侍御史汝賢は元豊年間、王安礼を論じて罷免され没した。汝明は学を好み筆が速く、太学で評判を得た。国子司業黄隱がその人柄を見込み娘を娶わせようとし、汝明は「華美を飾らず力を合わせ親に孝養する」と誓って受け入れた。
  • 進士に及第し衞真・江陰・宜黄・華陰四県主簿、杭州司理参軍、亳州鹿邑丞を歴任。母の疽(できもの)を刺血で治した孝行、江陰尉時代の同僚の負債を私財で肩代わりした逸話、華陰の嶽廟修築を期限内に完遂させた手腕、非公認の祠の破却などが伝わる。20年間州県を転々としつつ一言も昇進を求めなかったため推薦者がなかった。
  • 大観年間、学制局に召され貢士の考査を担当、不興を買った者から「王氏学に背いた」と誣告されたが調査の結果「考校に私心なし」と評され宣教郎に改められ監察御史に抜擢された。殿中侍御史代理として政府が市恩・招権を行い蔡京を首謀とすることを即日弾劾し、帝はその介直を評価したが京はこれを憚り司門員外郎に転じさせ、さらに退けようとした。
  • 通判寧化軍として遼との文書往来で自身の名が遼の忌諱に触れ問題化した際、周囲が吏に罪を着せようとしたが「詭辞で君を欺くことはしない」として自ら責を負い監壽州麻歩場に左遷された。漢陽判官として田法(検地)の実施で不正防止のため自ら現地を巡り官吏の不正を許さなかった。岳州知事として古編鐘の献上話を「越権で恩賞を求めることはできない」と辞退し在官のまま享年54で没した。母への孝養、精緻な学問(象数・経史・諸子百家)で知られ、易索・張子巵言などの著作がある。