宋史卷三百四十七 列傳第一百六 章衡
出自と経済・辺境政策
- 章衡、字は子平。浦城の人。嘉祐2年(1057年)進士第一。湖州通判、集賢院直、鹽鐵判官、修起居注を歴任。三司の経費が実額を把握できず民に急な負担をかける弊を改めるよう建言、三司使に忌まれ汝州・潁州知事に出された。
- 熙寧初年、太常寺判官として国恤の礼を国家の礼典に加えるよう提案し「厚陵集礼」が編纂された。鄭州知事として原武監の牧地を民に還した。太常判官、審官西院を経て遼への使者として燕射の技を評価され、帰朝後「遼境は無防備、今なら山後八州を回復できる」と進言したが聞かれなかった。
- 学者が歴代帝系を知らぬことを憂い「編年通載」を編纂、神宗はこれを評価し三品服を賜った。吏部流內銓判官の際、三班院との人事権争いで宰相にまで直訴し正当性を認めさせた。通進銀台司・寳文閣待制・知澶州、成徳軍に転じ、塩の民間販売の禁令を「民は法を犯してでも生計を求める、旧に復すべき」と論じた。元祐中、秀・襄・河陽・曹・蘇州、集賢院学士、待制として楊・廬・宣・潁州を歴任、享年75で没した。