出自と王安石批判
- 盛陶、字は仲叔。鄭州の人。熙寧年間、監察御史として神宗の河北問いに「郡県廃止は便民に見えるが辺境の防備を損なう」と答えた。慶州の李復圭の敗戦、程昉の無用な開河工事を弾劾し、いずれも王安石の主導であったが屈しなかった。
- 隨州判官通判、太常博士、考功員外郎、工部右司郎中を経て侍御史として恩沢挙人の制度・選人改官の制度を論じた。劉安世らが蔡確の謗詩事件を追及した際「確は弟の碩の罪に連座して罷職しただけ、詩を捃摭(あら探し)するのは告訐の風を助長する」と反論し、安世に「風憲の地にいながら不当な観望をしている」と逆に批判された。汝州・晋州知事、太常少卿として合祭天地の議論では先帝の北郊の意向に従うべきと主張したが、実際に合祭となると異を唱えず従った。禮部侍郎権、中書舍人、龍圖閣待制・知應天府・順昌府・瀛州を経て元符中、職を奪われ享年67で没した。
史論
- 論じて曰く、王氏・章惇・蔡京が国事を握った時代、士大夫は逆らえば斥けられ従えば進むと知りながら、孫鼛は蔡京を正言して助けを拒み、吳時は童貫を退け王黼に逆らって帰郷を余儀なくされ、昭玘は侯蒙の招きを辞し、朱服は章惇の推薦を拒み、舜民は新法を詆り、盛陶は安石に屈しなかった。その大節はみな取るべきである。ただ漢之は蔡京の客となり、亷は蔡確の獄に連座した点は鼛らに恥じるところがある。易に「介如石、不終日、貞吉」とあるように、君子は幾(機微)を知ることを貴ぶのである。