出自と王安石・司農時代
- 黄亷、字は夷仲。洪州分寧の人。進士に及第し州県官を歴任、熙寧初年王安石に推挙された際、免役法について旧法に基づき詳細に答え「これは新法を実行できる人材」と評された。神宗に召対され「陛下の意は民を便ずるにあるが官吏が適任者でなく、法の意図と地方の実施が乖離し、河朔の水害・河南斉晋の旱害・淮浙の蝗害・江南の疫病を陛下は知らない」と直言した。
- 東道の水害を体量振済し司農丞に任じられた。転運判官、監察御史裏行として人材推薦制度の整備を求めた。水旱による賦税の倚閣(猶予)を悪用する民を戒め督促の漸進を提案した。王中正の権限過大を懸念しつつ「人材に類はない、駕御の仕方次第」との考えも示した。
- 曹村の黄河決壊で30万頃の田・38万戸の家屋が失われた際、京東で発廩振饑を担当し、25万人を活かした。相州の獄事件で鄧伯温・上官均の冤罪主張が容れられなかったことを後悔した。集賢校理・河東刑獄提点として遼が代北の地の代替を求めた際「境界を分ければ中国の険固を失う」と反対、後に契丹が両不耕地を得て鴈門に迫った。王中正の西征失敗も予見し、大軍潰滅後、責任転嫁された亷は貶秩された。
- 元祐元年(1086年)戸部郎中に召され、陸師閔の川陝茶法の弊害を按察、熙秦の茶を榷(専売)とし東路の通商を許す策を建言、俵馬の歳額を1万8000匹に定めた。左司郎中、起居郎、集賢殿修撰、樞密都承旨を歴任、蔡確への付会を上官均に論じられ陝西都転運使、給事中を経て享年59で没した。