出自と地方官・蔡京との関わり
- 王漢之、字は彦昭。衢州常山の人。父の介は制科に及第し秘閣校理に至った。漢之は進士甲科に及第し秀州司戸参軍、金華・澠池県知事を経て鴻臚丞、直州知事として財用の経畫について籍簿の整備を提案し採用された。
- 開封府推官、工吏礼三部員外郎、太常少卿を経て、蔡京の講議司の参詳官となった。禮部侍郎、戸部を経て顯謨閣待制・知瀛州として何承矩以来の塘濼屯田策の再興を進言した。雄州知事として災害時の税制を巡り両輸戸の課税免除を求めたが吏が従わなかったことを「契丹に朝廷の恥をさらす」と批判した。
- 江寧・河南府に転じたが赴任せず、蘇・潭・洪三州を経て兵部侍郎、顯謨閣直学士・知成都、5州を歴任、工部侍郎として遼への使者となり、遼主の民政不顧と苛斂を報告した。徽宗はこれを喜び知定州に任じ、江寧知事として方臘の乱の禦捕功を評価され龍圖閣直学士、延康殿学士に進み享年70で没した。
王渙之――弟の事績
- 弟の渙之、字は彦舟。若くして上第を得たが年齢制限に触れ武勝軍節度推官に補された。杭州教授、潁上県知事を経て、太学博士・校対黄本秘書、通判衞州、両朝魯衞信録の編修に関わった。徽宗即位後、日食を機とした求言に応じ、大臣の推薦で召対し「求言も難しくないが聴くこと・察して用いることこそ難しい」と論じ帝を喜ばせた。諫官・御史への任用を辞し吏部員外郎、左司員外郎、起居舍人、中書舍人に進んだ。
- 詞頭33件を即座に起草した逸話がある。崇寧初年、給事中・吏部侍郎、寳文閣待制・知広州となったが、陳瓘・龔夬・張庭堅との旧交を理由に弾劾され舒州知事に転じ、党籍に入った。福州・広州へ転じる中、蕃客の殺人事件で舊例を破り法通りの処罰を主張し、また非難されて洪州・滁州・潭州・杭州・楊州を歴任した。張商英の失脚とともに知中山府、寳文閣直学士に進んだが、北代(燕雲経略)の議論には病を理由に関わらず享年45で没した。仕進に淡泊で「乗車も乗舟も仕官も常に不遇と考えれば無事」と語ったという。