宋史卷三百四十七 列傳第一百六 吳時

出自と地方・中央での言論

  • 吳時、字は伸道。卭州の人。学究出身で再試して甲科に及第、知華州鄭県となった。転運使が長安への輸送を命じた際、鄭県のみ3万斛を負担する不公平を人夫・車の数を具体的に示して訴え、駐兵地の移転による経費削減を提案し使者に採用された。
  • 陸師閔の秦蜀茶馬幹官の属官、章楶の御史推薦を辞退。徽宗の求言に応じ辺境の建言を行い、睦親宅教授・提挙永興軍路学事となった。学生の忌諱に触れる文書を焼き「臣子が忍びない言葉を君父に聞かせるべきでない」と述べた。
  • 工部員外郎、辟雍司業として算学に黄帝を先師とすべきとの議に「祭祀での礼をいかに定めるか」と問い議を止めさせた。太僕少卿、張商英の罷相に連座し耀州知事、鼎州通判へと降格されたが、河東常平提挙として飢饉に公粟を発した。童貫の辺事相談に答えず、給事中として内侍何訴の節度使弾劾を貫き、燕地取得論に「祖宗の盟血がまだ乾かぬのに破れば速やかに乱を招く」と諫めたことで蔡攸・王黼の怒りを買い斥けられた。徽猷閣待制・提挙上清太平宮として帰郷し享年78で没した。文章は筆を下ろせば即座に完成し「立地書厨」と呼ばれた。