宋史卷三百四十七 列傳第一百六 李昭玘

出自と党籍への連座

  • 李昭玘、字は成季。済南の人。晁補之と並び蘇軾に知られ進士に及第、徐州教授として太守孫覚に礼遇された。李清臣の推薦で秘書省正字・校書、秘閣校理、潞州通判として民の死者の埋葬制度を整備した。
  • 秘書丞・開封推官、永興・京西・京東路刑獄提点となったが元符党に連座し官を奪われた。徽宗即位後、右司員外郎、太常少卿を経て韓忠彦が起居舍人に用いようとしたが曾布に阻まれ陳次升に弾劾され滄州知事に出された。崇寧初年、元豊敕条の緩和に賛成したとして鴻慶宮管理に落とされ党籍に入った。
  • 閑居15年、自ら「楽静先生」と号し、法書・図画を10の袋に収め「燕遊十友」と名付け「今の人と交われば禍に陥る可能性があるが、これら十者となら久しく味わえる」と序した。かつて高密の試験官として侯蒙を抜擢した縁で蒙が執政となり厚遇を申し出た際、秘閣の法帖を求めるにとどめた。延安小将車吉が誣告された際も無実を明らかにし、後に立身した吉は昭玘に恩を謝した。晩年、歙州知事の任を辞し、靖康初年、起居舍人に召されたが没した。紹興初年、直徽猷閣を追贈された。