宋史卷三百四十六 列傳第一百五 彭汝礪
彭汝礪、字は器資。饒州鄱陽の人。治平2年(1065年)に進士第一(状元)となる。神宗期は監察御史として王安石の新法や宦官の専横を諫め、哲宗期は蔡確の詩弾劾事件で公正な立場を貫き宣仁太后の信頼を得た。吏部侍郎などを歴任し、享年54で没した。弟の彭汝方は方臘の乱で衢州を守り殉じた。
出自と神宗への直言
- 彭汝礪、字は器資。饒州鄱陽の人。治平2年(1065年)進士第一。保信軍推官等を経て、王安石はその文才を認め国子直講に用いたが後に嫌うようになった。御史中丞鄧綰が御史に推薦しようとしたが応じず、綰の失挙で神宗が怒り綰を逐い、代わりに汝礪を監察御史裏行に用いた。
- 正巳・任人・守令・理財・養民・振救・興事・変法・青苗・塩事の十事を論じた。呂嘉問の市易聚斂を非法と論じ、俞充が中人王中正に妻を拝させた諂媚を告発し神宗はその中正への責任追及を止めた。李憲・王中正の西師統率に反対し漢唐の禍乱を引いて諫め、神宗の不興にも拱立して動じなかった。
- 宗室の女の民間への売婚を批判し婚法の改定を求めた。江西転運判官として「今は将順の臣が不足しているのではなく諫諍の臣が不足している」と論じ、神宗はその忠を嘉した。
蔡確事件と晩年
- 元祐2年(1087年)起居舍人に抜擢され「新旧の政は彼此なく善を採るべき」と述べた。中書舍人として金紫を賜り詞命は雅正で古人の風があった。呉処厚が蔡確の安州詩を弾劾する事件では「これは羅織の端緒である」と反対し、宣仁太后の怒りを恐れず論じたため朋党と非難されたが、太后は「汝礪は確に党するのではなく朝廷のために論じているだけ」と擁護した。
- 確の詞を起草させられた際「私が起草せねば誰が責を負うか」と自ら省に入り草を書いたが辨論を続けたため落職・知徐州となった。後に呂嘉問事件で確と別の見解で議論した経緯があり10年外任した後、確に有利な材料を提供したことでさらに評価が上がった。集賢殿修撰、兵刑二部侍郎を経て、独断で人を殺す執政の判断に反対し免職を求めるほどの姿勢を貫いた。
- 礼部真拝吏部侍郎に転じ、哲宗の親政開始時、他が競って建言する中で汝礪だけが沈黙し「以前は言えなかったが今は誰でも言える」と述べた。権吏部尚書に進んだが劉摯への付会を疑われ、宝文閣直学士・知成都府を経て待制・知江州となった。哲宗の下問に「陛下が今復すべきは是非を明らかにし賢否を判断すること」と答えた。数か月で病により去り、遺表で河北の流民や江南の水旱に言及した。没時享年54。
- 読書・文章に志を持ち行動は義に合わせ、兄が子を持たなかったため後嗣を立てて自ら官に就けた。師事した倪天隠の死後、その母・妻・娘の面倒を見た。著作に易義・詩義・詩文計50巻がある。
彭汝霖・彭汝方――弟の事績
- 弟の汝霖、字は巌老。進士に及第し曾布の薦挙で秘書丞、殿中侍御史に抜擢され曾布に付き、紹述の論が復興する中、李夷行の詩賦復活論を弾劾し、韓忠彦の合祭議論に反対し侍御史に進んだ。李清臣と布の対立で布が江公望を使い清臣を攻撃させたが公望が拒み、汝霖が清臣を逐って布の思惑通りとなった。趙諗の謀反事件の獄で司馬光以下を貶め布が失位すると、汝霖も泰州知事、濮州団練副使に貶され、後に顕謨閣待制で没した。
- 弟の汝方、字は宜老。汝礪の蔭で栄陽尉となり、汝礪の死後は官を辞して葬儀を行った。豊稷の招きで南京の司録、通判衢州を経て知州事となり、政和の初め、方臘の乱が起こり衢州に迫った際、段約とともに孤城を守り3日で陥落、賊を罵り死んだ。享年66。徽宗は彼を褒め龍図閣直学士・通議大夫を追贈し諡を忠毅とし一族7人を任官した。