宋史卷三百四十六 列傳第一百五 呂陶

出自と王安石批判

  • 呂陶、字は元鈞。成都の人。蒋堂が蜀の学生を集め文を評した際、陶の論集が「賈誼の文」と称賛された。時に13歳。中進士後、銅梁令として姉弟間の財産争いを、弟に半分を仏事に供するよう説得しつつ姉たちに分配させ解決した。
  • 太原壽陽県知事、府帥唐介に用いられ簽書判官として立朝の要諦を学んだ。介の推薦で熙寧制科に応じ、王安石の新法の過失を数え挙げる対策を提出、「賢良の対策は犯すことを尊ぶ」と述べた。神宗が安石にその巻を読ませると、安石は途中で顔色を失ったが、神宗は馮京に読み終わらせ「言に理がある」と評した。司馬光・范鎮は「安石が用事してから我らの言論が効かなくなったが、君はこれを成し遂げた」と称えたが、孔文仲の科目も同時に廃され、陶は入等したものの通判蜀州にとどまった。

地方官と元祐年間の言論

  • 張商英が永康軍廃止を求めた際、陶は反対し、彭州知事として威茂の夷の侵入に備え守備を整え、永康の廃止を阻止した議論を朝廷に提出した。王中正の軍事の誤りを召還させた。李杞・蒲宗閔の茶の椎買が西州を騒がせた際、川蜀の茶生産は東南の10分の1にも満たないのに厳しい法で良民が刑に陥っていると論じ、宗閔の怒りを買って懐安商税監に貶されたが「虚名を代償に蜀民の百万の実禍を救えるなら光栄」と語った。
  • 元祐初年、殿中侍御史に抜擢され「君子小人の分を弁ずれば王道が成る」として蔡確・韓縝・張璪・章惇を「先朝では小人と表裏の政を行い今は観望して子孫の計を図る」と批判、安燾・李清臣の依阿も併せて論じ、数人が相次いで罷免された。差役法の議論では新旧折衷の防禁を提案し、道が郷里に帰った際に精密な議論をまとめた。
  • 蘇軾の策問問題での朱光庭による弾劾に対し「臺諫は公を尽くすべきで私怨の報復に事権を借りるべきでない」と論じ、両者を処分から外させた。張舜民事件で傅堯俞・王巌叟と対立し、太皇太后が取り上げなかったが左諫議大夫に進み、梓州・淮西・成都路転運副使、右司郎中、起居舍人を歴任。大臣が奏事の際に史官を退けようとした際「屏左右さえ許されぬのに史官はなおさら」と反対し詔で令となった。
  • 中書舍人として契丹への使者を務め帰朝後は辺備の修理を進言、河北の重要性を説いた。哲宗親政後、太皇太后(宣仁)への報恩を陛下に説き、姦邪の謀による人物や事の復活を警戒すべきと論じた。集賢院学士として陳州・河陽・潞州を歴任、党人の例により奪職・庫部員外郎分司に貶されたが、徽宗即位後、集賢殿修撰・知梓州として致仕し享年77で没した。