宋史卷三百四十五 列傳第一百四 劉安世
劉安世、字は器之。魏の人。父の劉航も清廉な地方官として知られた。司馬光に師事し「誠」を旨とし、元祐期に右正言・左諌議大夫として文彦博以下の耆宿や章惇を厳しく弾劾した。紹聖以降、章惇・蔡京らに迫害され7年間各地に流謫されたが節を曲げず「殿上の虎」と畏敬された。宣和6年、中書舎人に復されるも間もなく死去、享年78。
年表(1件)
- 宣和6年1124年待制・中書舎人に復されるも、間もなく死去、享年78
父劉航の事績
- 劉安世、字は器之。魏の人。父の劉航は進士に及第し虞城・犀浦の県知事を歴任。虞城は姦猾で盗が多く、犀浦は民が弱く馴れやすい土地柄で、航は寛猛・急緩を使い分け両県ともよく治めた。知宿州として夏の使者を押伴した際、使者の非礼な要求を悉く正した。
- 河南監牧使として夏主秉常への冊命に赴いた際、慣例で贈られる宝帯・名馬を受け取らなかった。河北西路転運使として熙寧の大旱に際し新政の不便5事を論じ、天下の心を失わぬよう改めるべきと上書したが用いられず、崇福宮提挙を求めた。知涇州・相州、王師西征時は知陝府として軍興の急務にあたり、他の県令が民を督責して自尽者まで出す中、航は平常心で事にあたり太僕卿に至った。
出自と司馬光への師事
- 安世は若くして識見があり、父から時文の収集を命じられていた。文彦博が枢府にあった頃、安世が「王安石は求去するとの噂だがあなたが代わるとの評判がある」と告げると、彦博は「安石が天下を壊した後、誰がこれを収拾できようか」と答え、安世は自らの若輩を弁えつつも堂々と意見を述べた。
- 進士に及第しても仕官せず、司馬光に師事し「誠」と「自ら妄語せず」の教えを受けた。洺州司法参軍を経て司戸の貪汚が転運使吳守禮に問われた際、安世は虚偽の弁明をしてしまい、後にこれを恥じた。
- 司馬光が入相すると秘書省正字に推薦された。光の死後、宣仁太后が呂公著に台諫の人材を問い、公著は安世を推した。右正言に抜擢され、執政が親戚を要職に就ける慣習を批判し、文彦博以下7人の耆宿を歴疏した。
- 章惇が崑山の民田を強買した罪を金銭罰で済ませたことに対し、惇は蔡確・黄履・邢恕らと結んだ「四凶」であり、罰を軽くすべきでないと論じた。呉処厚が蔡確の安州詩を「指斥乗輿」の不敬として糾弾した事件では極論し、確は新州に流された。宰相范純仁以下御史10人がこの事件に絡んで去った。
諫官として乳婢事件を諫める
- 起居舍人、左司諫、左諫議大夫に進んだ。講筵が一時罷止された際、宮中で乳婢を求める噂が民間に伝わり、安世は「陛下は年若く未だ后を納れておらぬのに女色に親しむのは慎むべき」と諫めた。哲宗は俯いて答えず、宣仁太后は「そのような事実はない、卿は誤って聞いたのだろう」と応じたが、後に呂大防にこの件を告げ、大防は給事中范祖禹を召し伝達させた。祖禹も既に諫めていたため、両人は改めて力説した。
- 鄧温伯の翰林承旨昇進をめぐり、その出処進退が党派に絡んでいると批判、罷免を求めたが聞かれず、外任を求めるも執政に留められた。呂恵卿の光禄卿分司復官に反対し、聞かれず知成徳軍に出された。
章惇の迫害と晩年
- 章惇が用事するとますます安世を憎み、南安軍知事に貶し、さらに少府少監、新州別駕安置と三度貶された。同文館獄が起こると蔡京は安世ら一族の誅滅を求め、讒言は行われなかったが梅州に移された。惇と蔡卞は必ず殺そうとし、海島の陳衍誅殺の使者に安世への自裁強要を諷し、さらに土豪を転運判官に取り立てて暗殺させようとした。刺客が迫ると梅州守が計を勧めたが、安世は顔色を変えず酒を飲み笑談し、書きつけを僕に託して「私が死んだらこの通りにせよ」と言った。刺客は途中で嘔血して死に、安世は難を免れた。
- 昭懐后(劉后)の立后に際し、章惇はかつての乳婢事件の諫言を持ち出して安世らを追い詰め、鄒浩が貶された際には孫鼛が檻車で安世らを京師に護送しようとしたが、途中で徽宗即位の恩赦に遇った。都合7年間の流謫の中で最も辺鄙な地を歴任し、衡州・鼎州を経て集賢殿修撰として鄆州・真定府知事となったが曾布に忌まれ入朝を許されなかった。蔡京入相後も7度の左遷を重ね峡州で覊管され、後に承議郎に復し宋都に居し、宣和6年(1124年)待制・中書舍人に復されたが沈思に封還され、翌年享年78で没した。
人柄
- 儀容魁偉で声は鐘のように響いた。諫官拝命前、母に「触忤があれば禍が及ぶが、主上は孝治を天下に行っている、老母を理由に辞退すれば免れよう」と申し出たが、母は「お前の父は生涯諫官を望みながら果たせなかった。この地位を得た以上、身を捐てて国恩に報いよ。罪を得て流謫されても遠近を問わずお前に従う」と答え、安世は職を受けた。
- 在職中、面折廷争を貫き、帝の激怒に遭うと簡を執って退き、怒りが解けるとまた進んで論じた。傍らの侍者は「殿上の虎」と呼んで畏敬した。家居でも惰容を見せず、久坐しても身を傾けず、草書を書かず、声色貨利を好まなかった。忠孝正直はすべて司馬光を範とした。梁師成が権勢を振るう中でも安世の賢を慕い、小吏を送って厚遇を約したが、安世は「子孫のために計るなら今のようではない。元祐の完全な人として地下の司馬光に会いたい」と笑って謝絶し、書にも返答しなかった。祥符県に葬られ2年後、金人が墓を暴いた際、遺体は生けるがごとくであったため人々は驚いて去ったという。