宋史卷三百四十四 列傳第一百三 馬黙

馬黙、字は処厚。単州成武の人。石介に学び、剛直な地方官・諫官として知られた。濮議での直言、西夏来寇の予見、司法の公正さなどで評価され、司農少卿・河北都転運使などを歴任した。紹聖年間に致仕したが、後に復官し享年80で没した。

年表(1件)

出自と地方官としての剛直

  • 馬黙、字は処厚。単州成武の人。貧家に生まれ徒歩で徂徠に赴き石介に師事した。石介は「馬君は必ず名臣となる」と評した。進士に及第し臨濮尉、須城県知事となり、鄆州の吏の不法を捕らえて杖罰し、太守曹佾の不興を買っても屈しなかった。
  • 監察御史裏行として時務に直言し、上司張方平の忠告にも「知遇に報いるため」と屈しなかった。濮安懿王の尊崇をめぐる議論では呂誨らの外補に対し復帰を求め、自らも「称号を誤れば名分が立たず、宸心に発して詔を寝め和気を招くべき」と論じた。
  • 官人の任用が実績・実声によらず権門への接近によって決まる弊を指摘し、賢才の登用を求めた。刑部郎中張師顔が飛語で誣告された際は師顔を弁護した。会聖宮の仁宗神御殿新設に典拠なしと反対し、地震を予兆として西夏来侵に備えるべきと予言した通り数か月後に西夏が来寇した。

諫言と辺境・地方統治

  • 通判懐州として十事(攬威権・察姦佞・近正人・明功罪・息大費・備凶年・崇倹素・久任使・択守宰・禦辺患)を上疏した。
  • 知登州では沙門島の流人が過剰に殺害されている実態を摘発し、砦主李慶を追及、慶は自縊した。配島法20条を改定し多くを救った。蘇軾が登州知事となった際、父老が「馬使君のような愛民の政をせよ」と語ったという。
  • 三司塩鉄判官、富弼との親交や新法批判により知済州・兖州に出され、三司帳司提挙として神宗に用兵形勢や河北山川の地理を澱みなく答え重用されかけたが大臣に妨げられ提点京東刑獄となった。金鄉令の不正を糾し、広西転運使として安化蛮の乱で蘇緘・狄青らの故事を引き平蛮策を上奏した。
  • 司農少卿として司馬光の役法改革相談に応じ、常平法など良法は存続すべきと述べた。河東転運司として葭蘆・呉堡二寨の放棄論に反対しこれを阻止し、饑饉救済で数万人を活かした。衛尉卿、権工部侍郎、河北都転運使として黄河の北流・東流論争に関わり、東流策は結局失敗した。
  • 紹聖年間、司馬光への付会で待制を落とされ致仕、元符3年(1100年)に復官し享年80で没した。子純の縁で開府儀同三司・太保を追贈された。

史論

  • 論じて曰く、詩に「時に争いなければ王の心も安らかなり」とあるが、王安石の宰相たるや天下の争いを致して君心を安んじなかった。孫覚・李常は新法に力諫して故人の情を失うことを恐れず断固去った、賢なるかな。孔文仲は制科の対策で微官ながら慷慨に論じ、名声は上聴に達したにもかかわらず、安石は人を斥けたのみか科目まで廃した、その遷怒の甚だしさよ。鮮于侁は早くから安石の失敗を見抜き呂誨と見識を同じくした。馬黙は張方平の推薦で御史となり、尽言して憚らず、方平が止めても聞かなかった――これぞ知己に背かぬ者である。李周の耿介、顧臨の用兵、李之純・王覿の再三の黜逐にも節を改めぬ姿は、その時代に賢者が多かったことを示すに足る。