出自と諫官としての活動
- 王覿、字は明叟。泰州如皋の人。進士に及第し、熙寧年間三司令式の刪定官を経て潤州推官を求めた。両浙の旱害で監司の意向を忖度し税を減らさない吏の姿勢に、覿は自ら検分し「旱の実情から見て賦を課すべきでない」と全額免除した。監司の怒りを買ったが、朝廷の振貸使に実情を訴え司農寺主簿・丞に転じた。
- 御史から要職への登用が慣例化する中、覿は一日で外任を求め、留任した韓絳の会計を検詳した。潤州にいた縁で罷免され数年屏居した後、太僕丞、太常を経て、哲宗即位後、呂公著・范純仁の推薦で右正言、司諫に進んだ。
- 「執政8人のうち姦邪が半ばを占める」として蔡確・章惇・韓縝・張璪を朋党の害と激しく論じ、次々と斥けられた。呂恵卿の弾劾も行った。姦臣を退けた後に「人情不安」を慰撫する詔が検討されると、覿は「舜が四凶を罰し孔子が少正卯を誅しても天下は服し、人情不安との声は聞かない」として反対した。
- 西夏の新主の軽率さに対し「今秋より後日を憂うべき」と説き、擒えた洮東の鬼章の処遇についても寛容を説いた。差役法の復活に際し新旧いずれの是非を超え善を採る立場をとり、青苗の害を論じて盡く新令を廃し常平旧法に戻すよう主張した。刑罰の軽重の適否も論じた。
諫官後半生と地方官
- 諫官分置の議論、朱光庭による蘇軾の館職策問弾劾に端を発した洛蜀党争では「軾の言葉遣いの軽重に過ぎない事案を朋党の名にしてはならない」と諫め、帝はこれに深く同意した。
- 右司員外郎、侍御史、右諫議大夫に進み、胡宗愈を論じたことで潤州知事に出された。直龍図閣・知蘇州では狡吏の横行を摘発し法により処罰、民から称えられた。江淮発運使、刑戸二部侍郎を経て遼への使者を豊稷と共に務め、遼人に礼遇された。
- 紹聖初年、成都府知事として、水利を疏通し民から「王公渠」と呼ばれる恩恵をもたらした。その後河陽に転じ、少府少監分司南京、鼎州団練副使に貶され、徽宗即位後に復官し永興軍知事、工部侍郎、御史中丞に進んだ。
- 改元にあたり「建中」の名が唐の徳宗の故事を連想させると諫めた。堯舜の政と時代の異なる神宗の法の継承をめぐり損益の理を説いた。翰林学士として日食の詔責躬を批判する言葉が咎められ、龍図閣学士として潤州、海州に転じ、太平観提挙、臨江軍安置となった。清廉で喜怒を見せぬ人柄で、二度の譴逐にも節を変えず、無疾のまま享年68で没した。紹興初年、龍図閣学士を追復された。
王俊義――従子の事績
- 覿の従子、俊義、字は堯明。京師に遊学し困窮する中、童貫の厚遇を拒み、林霊素の講席にも出頭を拒否した。太学上舍選で徽宗が自ら試文を評し第一とし「これぞ俊義である」と喜んだ。蔡京が招いても応じず国子博士にとどまり、鄆王の謁見時に諸生の門迎の礼を過剰として辞した。
- 吏部員外郎として親擢の意図を問われ「主司の意が一定しないため天子自ら文衡を執った」と答えた。館職を経て右司員外郎に進んだが、王黼に憎まれ直秘閣・知岳州に出され享年47で没した。李祁と正論を興し、当時の朝論に清濁を分ける影響を与えた。