出自と地方官としての剛直
- 李周、字は純之。馮翊の人。進士に及第し長安尉となった。飢饉の年、官が粥を給し民が殺到する中、周は柵を設け老幼男女に混乱を起こさせなかった。都巡検趙瑜は横暴な男だったが周には手を出せなかった。
- 洪洞令に転じた際、絶家の遺産を官が没収していた事案で族人が後に遺した証書を見つけると、郡吏が咎めるのを退けて還付した。県南の澗の氾濫を防ぐため新堤を築き、雲安県知事では塩井の課税百万近くを蠲免した。施州通判として牛耕の利のため田数千畝を開拓した。
- 司馬光の推薦にも呈身御史(自ら赴いて求職すること)を潔しとせず赴かなかった。神宗が孫固の推薦で周を召見し、権門と近づかぬ人物と評した。禦辺の策を問われ「四辺は手足に過ぎず、中国を疲弊させて遠略を勤めれば百姓が困窮し盗賊になり腹心の憂いとなる」と答え、神宗は御史に用いようとしたが執政の反発で提点京西刑獄に留まった。
治水・辺境政策と晩年
- 湍河を六渠に分けて鉗盧陂に水を導く議論に対し、周は「地形上、必ず害を招く」と反対したが工事は強行され、翌年果たして鄧城が水没しかけ、周の議論の正しさが証明された。
- 慈聖太后の陵墓工事にあたり、周は「臣子が喪に服し粗末な生活をすべき時に華美を競うのはおかしい」と諫め、独り功を誇る記載を拒んだ。哲宗即位後、職方郎中に召され、西夏との和議で蘭州を放棄しようとする議論に「隴右を失えば夏に帰し、湟水地域まで併呑され吐蕃の地を敵に与えるに等しい」と反対し放棄は取り止められた。
- 太常少卿、秘書少監、陝西転運使、太常少卿、権工部侍郎、集賢院学士として知邠州、鳳翔府・河中府・陝州、集賢殿修撰を歴任し享年80で没した。紹聖年間に賀州別駕に追貶されたが後に復官した。
- 周は生涯権門に私謁せず、公事は堂々と中書に赴いて論じた。薛向が三司の属官に推挙しようとした際も相見て何も言わず、退いて「この人は屈しがたい」と嘆じたという。このため世に不遇であった。