科挙と論争
- 孔文仲、字は経父。臨江新喩の人。性は狷直で寡言、幼くして刻苦して学び博洽と称された。進士に応じ、南省考官呂夏卿はその詞賦・策論を高く評した。主司は第一に抜擢し、余杭尉に任じられた。
- 台州推官を経て、熙寧初年、翰林学士范鎮が制挙で推挙した。9000余言の対策で王安石の理財・訓兵の法を強く批判し、宋敏求は異等とした。安石は激怒し神宗に御批で罷免させた。斉掞・孫固がその御批を封還し、韓維・陳薦・孫永も文仲の黜罰の不当を訴えたが聞き入れられず、范鎮も重ねて訴えたが聞かれなかった。蘇頌は「賢を渇望する朝廷にこの人が用いられぬのはなぜか」と嘆じた。
- 吳充が館閣に入れようとしたが忌む者があり国子直講にとどまった。王氏の経義が科挙の主流となる中、文仲はこれを学ばなかったため三班主簿に代えられ、保徳軍通判として西夏征討に従軍する民の負担を三つの不便として上奏した。
言官としての活動と死
- 元祐初年、哲宗が召して秘書省校書郎、礼部員外郎に進んだ。皇族の称号をめぐる議論で「新帝即位にあたり骨肉を疎んずべきでない」と主張し、議は止んだ。起居舍人、左諌議大夫に抜擢された。
- 日食を機に邪説乱正・小人乗君子・遠服侮中国・斜封奪公論・人臣軽国命の五事を上疏、青苗・免役・保甲・保馬・茶塩の法を害悪と論じた。中書舎人に転じ、貢挙を同知する頃には持病の寒疾を抱えながらも職を辞さず、疾がついに悪化して帰宅後に没した。享年51。
- 士大夫はみな哭泣し、蘇軾は柩に手を置いて「今の世は軟熟を嘉し崢嶸を悪む。経父のような剛直の士はもういない」と嘆いた。詔でその家を厚く恤し、弟平仲を江東転運判官として葬儀を監督させた。文仲は弟の武仲・平仲とともに文名で知られ「三孔」と呼ばれた。後に梅州別駕に追貶されたが元符末に復官した。文集50巻がある。
孔武仲――弟の事績
- 武仲、字は常父。幼くして力学し、進士甲科に及第、榖城主簿を経て斉州教授・国子直講となった。両親の喪に過度に哀毀し右腕が不自由になった。
- 元祐初年、秘書省正字・校書・集賢校理・著作郎・国子司業を歴任。科挙の弊を論じ王氏の学を批判、詩賦の復活と大義の廃止を求めた。起居郎兼侍講、起居舍人、中書舍人・直学士院に進んだ。
- 侍従の転対制度について「法によらねば言うと言わぬの区別が意のままになる」と論じた。北郊の親祭をめぐる議論では純陰の月に神州地祇を親祭すべきと主張した。給事中に抜擢され礼部侍郎に転じた。
- 宝文閣待制として知洪州となり、従臣が州の長官である場合の公坐は下級官の劾奏に留め大理に付すべきとの制度を建言し、これは令として定着した。宣州に転じたが元祐党として職を奪われ池州に居住、享年57で没した。元符末に復官。著作に詩書論語金華講義や内外制の雑文計百余巻がある。
孔平仲――弟の事績
- 平仲、字は義甫。進士および制科に及第し、呂公著の推薦で秘書丞・集賢校理となった。文仲が没すると平仲は江東転運判官として葬事を護送する任を受けた。
- 江浙鋳銭・京西刑獄を提点した。紹聖年間、元祐時の付会を弾劾され校理を削られ衡州知事に、さらに提挙董必に常平法不履行と官米損失60万を弾劾され潭州で獄が起こったが、「五年経ち食用に耐えない米を放出したまでで、非をもって罪と言うなら受けよう」と疏したのちに韶州に移り、さらに上書の廉により恵州別駕・英州安置となった。
- 徽宗即位後に復官し朝散大夫、戸部金部郎中を経て提挙永興路刑獄となり鄜延・環慶の帥を務めたが党論再興で罷免され兖州景霊宮の管理となり没した。史学・詩文に長じ「続世説」「繹解稗」などの著書がある。