宋史卷三百四十四 列傳第一百三 李常

出自と諫言

  • 李常、字は公択。南康建昌の人。若くして廬山の白石僧舎で読書し、進士に及第後もそこに蔵書9000巻を残し「李氏山房」と名付けた。江州判官・宣州観察推官を経て、発運使楊佐が薦挙しようとした際、常は友人の劉琦を推薦した。
  • 熙寧初年、秘閣校理として三司条例検詳官を兼ね、右正言・知諫院に進んだ。王安石と親しかったが、青苗法の収息に反対し、条例司の設置がすでに議論を招いており、均輸・青苗の斂散取息は経義に付会したもので王莽の再来だと批判する疏を上げた。安石は密使を送ったが常は止めなかった。州県が常平銭を強制的に貸し付けている実態も告発した。
  • 神宗の詰問に対し安石は常に官吏の名を挙げさせようとしたが、常は「諫官の体ではない」として拒み、校理を落とされ滑州通判に転じた。後に復職し知鄂州、湖州・斉州(斉州は盗賊が多く、常は獄無虚日の状態を刺客に扮した盗賊を用いて摘発、半年で700人を誅殺し姦は影を潜めた)を歴任した。

中央官としての活動

  • 淮南西路提点刑獄、元豊6年(1083年)太常少卿、礼部侍郎、哲宗即位後は吏部に改め戸部尚書に進んだ。器量を疑う声に対し司馬光は「常が邦計を主れば朝廷が利を征することに急でないと知られ、聚斂も収まる」と評した。
  • 転対で崇廉恥・存郷挙・別守宰・廃貪贓・審疑獄・択儒師・修役法の七事を上奏。役法の差役・免役二科が未定の折、法に新旧なく民に便な方が良いとし、貧富に応じた折衷案を上奏した。市易の逋負のうち200緡未満は免除、それ以上も過分の利息は取らぬよう求めた。
  • 御史中丞兼侍読、龍図閣直学士を加えられ、詩賦・経義を分けて両科とする科挙改革を論じた。黄河が小呉で決壊した際、孫村口から旧道に戻す議論があったが、常は京東・河北の飢饉を理由に反対し詔で停止された。
  • 諫官劉安世が呉処厚による蔡確の詩の弾劾を謗訕として攻撃した際、常は「詩を罪とするのは風俗を厚くする所以ではない」と上疏したため、安世は常をも劾奏した。兵部尚書に転じたが拝命を辞し、鄧州知事、成都に転じる途上、陝で急死した。享年64。著作に文集・奏議60巻、詩伝10巻、元祐会計録30巻がある。
  • 常は孫覚より一つ年少で、名声が並び共に呂公著の知遇を受け、議論の趣旨も概ね同じで、最終官職も同じ、没した時期もわずか一夜違いだったという。