宋史卷三百四十四 列傳第一百三 孫覺
孫覚、字は莘老。高郵の人。胡瑗に学び、地方官・諫官として治績を残した。神宗朝、青苗法など新法に反対して王安石と対立し左遷されたが、地方官としては堤防修築や治安維持の判断で民に慕われた。哲宗朝には御史中丞などを歴任し、享年63で没した。弟の孫覧も辺境で功を挙げた武将であった。
年表(1件)
- 熙寧2年1069年知諫院・同修起居注・知審官院となる
出自と青年期
- 孫覚、字は莘老。高郵の人。弱冠で胡瑗に師事した。胡瑗の門弟は千人を数えたが、その中から老成の者を選んで「経社」を作り、覚は最年少ながら泰然として振る舞い、皆から推服された。
- 進士に及第し、合肥主簿に任じられた。旱害の年、州が民に蝗を捕らせその代価を官に納めさせようとしたが、覚は「食に窮する民に威をもって督するより、米で交換すれば力を尽くし害を除いて利も得られる」と説き、太守はこれを容れ他県にも広めた。
- 嘉祐年間、名士を選んで昭文の書籍を校訂する事業に覚も選ばれ、館閣校勘に進んだ。神宗即位後、直集賢院となり、昌王(後の哲宗の父筋にあたる王)の記室として仕え、諸侯の孝を説いた「富貴二箴」を作った。
右正言としての諫言
- 右正言に抜擢された。神宗が積弊の大改革を志すと、覚は「弊政は改めねばならないが、改めてその弊が悔いに至れば元も子もない」と諫めた。
- 知人の難しさについて神宗に問われ、「人を知る要は言を知ることにある。功用の士は外に置くべきで、事は任せられても言葉までは任せられない。近年抜擢された者は口才ばかりで実行に乏しく、これが増えれば賢人が遠ざかる」と説いた。
- 邵亢が枢密院で見るべき献策をしないことを神宗が覚に語り、陳升之に代えようとした際、覚が奏疏で諫めたことが「希㫖(迎合)」と誤解され官を二級奪われた。執政は「諫官には降官の理はない」と抗議したが、覚は連章して辞任を願った。
- その後、通判越州、復して右正言、知通州を経て、熙寧2年(1069年)に知諫院・同修起居注・知審官院となった。王安石は当初覚と親しく、呂恵卿の起用について問われた覚は「恵卿は弁が立ち才もあるが利のために安石に身を屈しているにすぎない」と答え、神宗も同じ疑いを抱いた。後に王安石と呂恵卿は不仲になった。
- 青苗法をめぐり、覚は周の泉府の故事を根拠とする首唱者の説を批判する上奏を行い、国家が息を取ることの不当を論じた。安石は激怒し、覚が用事で中書に来た際「学士までもこうか」と難詰し、覚を逐う意を固めた。曾公亮が畿県で常平銭の強制配分による民の混乱を語ると、安石は覚を派遣して実情を視察させたが、覚は行くのを辞して陳留県などでは民が一銭も自主的に借りていないことを報告し、朝廷に体量停止を求めた。安石は覚を「反覆」と断じ、覚は広徳軍知事に出された。
地方官としての治績
- 湖州に転じ、松江の堤が水没して民の患いとなっていたのを石堤に改め高さ一丈余・長さ百里とし、堤下は良田になった。廬州、右司諫を経て、祖母の喪により辞官を求めたが太常が許さず、潤州知事に任じられた際にはすでに喪に服していた。服喪明けに知蘇州となった。
- 福州では婚礼・葬礼の費用が過大な風習を改め、資装は百千を超えぬよう定め、嫁娶の費用も葬送費用もおよそ五・七割減った。亳州・揚州・徐州に転じた。徐州で多発する盗賊のうち殺人犯5人を捕らえ、うち一人が体格の弱い者だったため詰問すると、野で強要されて加担しただけと判明し、覚は首謀者だけを処刑した。この判断が以後の先例となった。
- 応天府知事、入朝して太常少卿、秘書少監、哲宗即位後は侍講を兼ね右諌議大夫に進んだ。諫官・御史の職分を越えて論じることを禁じる規則を、覚は唐の六典や天禧の詔書に基づき改めるよう求めた。
- 宰相蔡確・韓縝が徳によらず進んだと論じ、確の弁明を折り、確はついに去った。韓縝が覚を給事中に進めようとしたが、覚は「執政が人の議を恐れて官で餌をつるやり方だ」と辞し、韓縝とともに罷免されることを望んだ。
- 吏部侍郎として右選を管掌したが、選人1万5000人に対し欠員はわずか5分の2、3年も任官できない者もいたため、軍功・保甲出身者の任用や員外置制を提案し、一日で数千の欠員を作った。左選に転じては磨勘を年百人に制限した。御史中丞に抜擢されたが数か月で病により辞し、龍図閣学士兼侍講、提挙醴泉観となり、舒州霊仙観を求めて帰郷した。哲宗は使者を遣わし白金500両を賜った。享年63で没した。
- 王安石に逐われた身でありながら、安石が鍾山に隠退した後も覚はしばしば旧交を訪ね、安石の死に際して誄文を作った。紹聖年間、元祐党人として職を奪われ二官を追奪されたが、徽宗即位後に復官した。著作に文集・奏議60巻、春秋伝15巻がある。
孫覧――弟の事績
- 覚の弟、覧、字は傅師。進士に及第し尉氏県知事となった際、下級将校が士卒を虐待し大閲を機に叛乱を謀ったが、覧は単身赴いて説諭し騒動を鎮めた。神宗はその胆力を評価し司農主簿とした。
- 舒亶が寺を主管しつつ諫院を兼ね、覧を引き入れようとしたが拒み、亶は帳簿の不備を口実に劾奏した。その後、利州・湖南の常平を提挙、京西転運判官、右司員外郎を経て荆湖の開疆に関わり、沅州で招撫した渓洞130の民を本郡に従わせるよう建言し、また誠州から融江口まで通路を開いて西広の塩を通し北道の輸送を省く策を進言、いずれも採用された。
- 河東・河北転運副使、直龍図閣、知河中・応天府、江淮発運使を経て宝文閣待制に進み、桂州から広州、渭州に転じた。夏人が横山沿いに寨を築き秦晋の道を塞ぐと、覧は葭蘆の奪還を謀り、寡兵で持久戦の後に大軍を破って葭蘆に城を築いた。功により枢密直学士を加えられたが、議論が執政の意に逆らうことが多く度々貶降され、寳文閣待制に降されて享年59で没した。