宋史卷三百四十二 列傳第一百一 梁燾

出自と新法批判

梁燾、字は況之。鄆州須城の人。父の蒨は兵部員外郎・直史館。父の蔭で太廟斎郎となり進士及第、集賢校理、明州通判、検詳樞密五房文字を歴任。元豊年間の旱魃に際し、市易・青苗・助役・方田・保甲・淤田といった新法の弊害が複合的に民を苦しめている実態を上疏し、聚斂の禍が朋党蔽蒙の風となって政を敗るのを恐れると論じた。内侍王中正の不当な論功行賞に反対し、宣州知事に出された。神宗に「王中正の功賞文書に反対したのは、法を曲げて陛下を欺きたくないため」と述べた。

哲宗初年の要職

哲宗即位後、工部郎中、太常少卿、右諫議大夫。宣仁后の礼服(袞冕)着用による受冊に反対する諫言に加わり、市易法廃止後の残債免除、青苗の連帯保証の緩和を求めた。文彦博が劉奉世を西夏への使者に推した際、御史張舜民がこれに反対し虢州通判に左遷された事件では「御史は敢言することこそ責務、大臣の不快で処罰するのは国家の恥」と強く抗議し、傅堯俞・王巖叟・朱光庭・王覿・孫升・韓川ら7人とともに詰問された。舜民の復職を求めて10回上疏したが認められず、集賢殿修撰・潞州知事に転出した。潞州では飢饉に際し朝命を待たずに常平粟を放出し、民の信望を得た。左諫議大夫として召還される際、民が轅を引いて留任を求めるほどであった。年若い哲宗の親政を支える太皇太后の垂簾を守り、姦人の欺蔽を戒める上疏を行った。

蔡確弾劾と晩年

前宰相蔡確の讒謗事件では劉安世とともに攻撃し「確に忠実な者は正論を唱える者より多い」とその党派の勢力の危険を説いた。蔡確は新州に流された。御史中丞、鄧潤甫の吏部尚書就任を柔佞として反対、龍図閣直学士・鄭州知事、翰林学士、元祐7年、尚書右丞、左丞。蔡京の蜀帥就任には「元豊の侍従で人材は多いが京は軽険貪愎で用いるべきでない」と反対した。西夏との境界画定の議論で意見が合わず辞意を示し、資政殿学士・同醴泉観使(宰相並みの厚遇)となった。頴昌府知事、紹聖元年、鄆州知事。朋党論が起きた際、哲宗は「梁燾の議論は常に公議に基づく」と評した。しかし司馬光党として鄂州、分司南京、雷州別駕・化州安置と累貶され、3年後64歳で没した。子は昭州に流された。徽宗即位後帰還を許された。燾は薦挙した人材の名簿を密かに記していたが、自ら「多くの薦挙先で結局多くの人に申し訳ないことをした」と謙遜した。