宋史卷三百四十一 列傳第一百 傅堯俞

傅堯俞、字は欽之。鄆州須城の人、孟州済源に移住。若くして及第し、諫官として濮議で「皇考」称号に反対し、宦官の専横や寵臣の弊を厳しく戒めた。神宗期は王安石の新法勧誘を拒んで左遷されたが、哲宗朝で御史中丞・吏部尚書・中書侍郎を歴任した。元祐6年、68歳で没した。

年表(3件)
  • 嘉祐末年監察御史となる
  • 元祐4年中書侍郎となる
  • 元祐6年68歳で死去、太皇太后が「清直一節、始終変わらぬ金玉の君子」と称える

出自と諫官としての活動

傅堯俞、字は欽之。鄆州須城の人、孟州済源に移住。10歳で文をよくし、若くして及第。監西京税院時代、留守の晏殊・夏竦から「清識雅度、文約理尽、卿相の才」と評された。嘉祐末年、監察御史。兗国公主の夫李瑋を巡る家庭問題で「主が愛に驕り夫を軽んじたことを陛下が瑋を追放して庇うのは礼に反し四方の笑いものになる」と諫めた。皇城の邏卒吳清の誣告事件では内侍の庇護による審理の停滞を批判し公正な審理を求めた。内侍李允恭・朱晦の越権や蔡世寧の内藏私見せなど、寵臣の弊を弾劾した。財政窮乏の折には「陛下自ら倹約を示すべきで、聚斂の術に頼れば天下は危うい」と説いた。皇嗣(後の英宗)擁立を求め、英宗が皇子となった際には礼遇の充実を求めた。

英宗・神宗期の要職

英宗即位後、殿中侍御史、起居舎人。皇太后との同聴政期、英宗の病快復後は速やかな還政を求め、内侍任守忠の讒言を排するよう諫めた。太后は還政し守忠は放逐された。右司諫・同知諫院として英宗の信任を得、忠と佞の別を「中人の性は上の教化次第」と説いた。蔡襄の処遇を巡る問答でも「公議に付せば辨は明らか」と応じた。陝西の熟戸招撫を宦官(李若愚ら)に委ねる案には「安撫経略使の職掌を侵す」と反対し撤回させた。濮議では侍御史吕誨とともに「皇考」の称号に強く反対し10余の上疏を重ね、「親」への変更後もなお「親も父母の意味であり不可」と論じた。水災を「宗廟を簡略にした報い」と結びつけて論じた。契丹への使者を経て侍御史知雑事となったが、吕誨らの罷免に連座を願い出て自ら出て和州知事となった。

神宗期の左遷と哲宗期の要職

神宗即位後、廬州知事。王安石の新法勧誘を拒み「新法は不便と世評されている、極論すべきだ」と応じたため疎まれ、直昭文館・権塩鉄副使に留められた。河北転運使、江寧府知事を歴任し、仁宗廟の不遷主としての地位を主張した。以後、許州・河陽・徐州と頻繁に転任させられ、崇福宮提挙に退いた。徐州で天文の吉凶を語る者の告発を保留したため免職されたが、後に監黎陽県倉草場として実務に忠実に努めた。哲宗即位後、明州知事から召され秘書少監兼侍講、給事中、吏部侍郎、御史中丞。人材登用は能力本位とすべきと説き、御史張舜民の罷免に反対して詔書を封還し、自らも吏部侍郎への転任を拒んだ。蔡確の詩讒謗事件では過度の連座を戒め「陛下の盛徳をもって蚊虻の如く聞き流すべき」と説いた。河道政策では慎重論を続け、吏部尚書兼侍読を経て元祐4年、中書侍郎。元祐6年、68歳で没した。神宗(哲宗)と太皇太后が哭臨し、太皇太后は「傅侍郎は清直一節、始終変わらぬ金玉の君子」と称えた。銀青光禄大夫を贈られ、諡「献簡」。紹聖年間党籍に列せられ贈諡を奪われたが、後に復された。堯俞は厚重寡言で人を欺かせぬ徳望があり、法令への従順さと清廉な実務を両立させた。司馬光は邵雍に「清直勇の徳を兼ねる者は稀だが欽之にはそれがある」と語り、雍も「清くして耀かず、直くして激せず、勇にして温」と評した。従孫の察は『忠義伝』に見える。

史論

史論に言う。王存・孫固・趙瞻・傅堯俞はいずれも初め王安石と善く、その執政期にも誘いに乗らず新法に迎合しなかった。元祐に至ると邪正を弁別し、とりわけ蔡確の詩讒謗事件を巡る「処分が過酷になれば朋党の禍を招く」との見立ては先見の明というべきである。彼らは変革に対して随事に諫止を加えながらも黙従せず、また矯枉過正の失もなかった。急がず緩まず進退に道があり、元祐の諸臣の中でも身と名をともに全うした稀有な例といえよう。