宋史卷三百四十一 列傳第一百 趙瞻
趙瞻、字は大観。亳州永城の人、鳳翔盩厔に居住。地方官として堰の築造や治水で実績を挙げた。濮議では「皇考」の称号に強く反対して英宗に直言し、神宗期には青苗法や交子の濫発、対外強硬策に慎重論を説いた。哲宗朝で樞密直学士・簽書樞密院事となり、元祐5年、72歳で没した。
出自と地方官時代
趙瞻、字は大観。亳州永城の人。鳳翔盩厔に居住。進士及第し孟州司戸参軍、萬泉令として学宮を修め、夏県知事として古の賢令長の治績を書した八監堂を建て自省の資とした。永昌県知事として6つの堰を築き灌漑を整え、水争いを解消した。威州知事として、地勢の険しさから文川への郡治移転を提案し、後に熙寧年間の西南経略の際に参考にされた。
濮議と諫官としての活動
治平初年、侍御史として「英断による専権は天下の大公と正論に基づくべき」との上疏を行った。内侍の王昭明らを陝西の諸路鈐轄招撫に用いる案に反対し、宦官の軍権関与を戒める故事を引いた。孫沔の西夏経略に代え馮京を用いる案にも反対した。濮王の称号を巡る議論では漢の師丹・董宏の故事を引き、「皇考」の称号に強く反対し、皇太后が濮王を「皇」と呼ぶ手書を発した際には「邪臣と中官が結託した」と憤慨した。英宗との対面で「陛下が仁宗の子でありながら濮王をも皇考と称すれば二父となる」と直言し、英宗は「これは中書の過ちで自分の本意ではない」と応じた。吕誨らの諫議罷免に連座を願い出たが認められず、英宗から「龍逢・比干の名を求めるより伊尹・傅説に倣え」と諭された。
神宗期の財政・辺境論
神宗即位後、司封員外郎・商州知事、陝西刑獄提点。開封府判官として青苗法を「季世の掊民の術」と批判した。王安石の懐柔を拒否したため京師を離れ、陝西転運副使、永興軍転運使を歴任。交子(紙幣)制度の管理を委ねられた際「本銭の裏付けなき空券の濫発は民を欺くこと」として慎重論を唱えた。哲宗即位後、太常少卿、戸部侍郎、元祐3年、樞密直学士・簽書樞密院事。翌年、同知院事として武臣の人材評価制度を提案。黄河の東流・北流を巡る議論では、大規模事業(役夫30万、木材2000万)に慎重論を説き、「王者は徳に頼り険に頼らない」として澶淵の役の勝因を徳・廟社の霊・将相の智勇に帰し、河道による防衛論を退けた。結局東流策は中止された。青唐の洮河諸族への武力介入にも反対し「信を以て外国に接するべき」と説き、渠陽軍の廃止、西夏への永楽遺民返還交渉も進言した。元祐5年、72歳で没し、太皇太后は「惜しいことだ、忠厚の君子であった」と嘆いた。銀青光禄大夫を贈られ、諡「懿簡」。紹聖年間、党籍に列せられ贈官を奪われた。著書に『春秋論』20巻、『史記牴牾論』5巻、『唐春秋』50巻、『奏議』10巻、『文集』20巻、『西山別録』1巻。四子は孝諶(瀛州録事参軍)・献誠(唐城令、早世)・某(早世)・彦詒(太康主簿)。