宋史卷三百三十六 列傳第九十五 呂公著

字は晦叔、呂夷簡の子。神宗朝では王安石の新法、とりわけ青苗法に強く反対して地方に出された。哲宗即位後は司馬光と共に宰相として新法を廃し、司空・同平章軍国事にまで進んだ。学識と人物眼に優れ、王安石も一目置いたと伝わる。

年表(6件)

出自と英宗朝まで

  • 字は晦叔、幼くして学を嗜み寝食を忘れるほどで、父の夷簡はこれを異とし「他日必ず公輔となるだろう」と言った。恩により奉礼郎に補せられ進士に登第、館職の試に召されたが就かず、潁州通判となる。郡守の欧陽脩と講学の友となり、後に脩が契丹に使いした際、契丹主は中国の学行の士を問い、まず公著をもって答えた。吏部南曹を判じ、仁宗はその恬退を奨め五品服を賜った。崇文院検討・同判太常寺を除する。寿星観で真宗の神御殿を営もうとすると、公著は「先帝にはすでに三つの神御があり、建立が已まないのは祀に豊昵の義がないのではないか」と言った。知制誥に進み三たび辞して拝さず、天章閣待制兼侍読に改まる。英宗が親政すると龍図閣直学士を加えられ、まさに濮王の追崇を議しようとした際、皇伯考と称そうとする者があったが、公著は「これは真宗が太祖を称した所以であり、王に施すべきではない」と述べた。詔により親と称し諱を班するに及んでは、また「親と称せば二父の嫌がある、王の諱はただ上前でのみ避けられるべきで七廟と同諱にすべきでない」と述べた。呂誨らが濮王の議を論じ去られると、公著は「陛下が即位して以来、諫を納れる風がいまだ彰らかでなく、しばしば言者を黜けているのはどうして天下に風を示すことになろうか」と言い聞かれなかったので補外を乞い出て蔡州を知った。

神宗朝の言論

  • 神宗が立つと翰林学士・知通進銀台司に召された。司馬光が論事のことで罷せられ中丞として経幄に還るとき、公著はその命を封還して「光が職を挙げて罷せられたのでは、有言責の者が言を尽くせないことになる」と述べた。詔によりその告は直に閤門に付されると、公著はまた「制命が門下によらなければ封駁の職が臣によって廃されることになる、臣の罪を理して紀綱を正すことを願う」と述べた。帝はこれを諭して「光を徙した所以は勧学のためであり言事の故ではない」と言ったが、公著は請いを已めず、ついに銀台司を解いた。
  • 熙寧初年、開封府を知る。夏秋淫雨があり京師で地震が起きると、公著は上疏して「昔から人君で災に遇う者は恐懼して福を致すか、簡誣して禍を致すかのいずれかである。上が至誠をもって下に対すれば下は誠を尽くしてこれに応じようと思う、上下が誠を尽くして変異が消えなかったことは未だない。ただ人君たる者は偏聴独任の弊を去って先入の語を主としなければ邪説に乱されない。顔淵が邦を為すことを問うと孔子は佞人を遠ざけることを戒めとした、佞人はただ君に合わないことを恐れるゆえにその勢いは親しみやすく、正人はただ義に合わないことを恐れるゆえにその勢いは疎まれやすい。ただ先ず王を正し厥の事を正せば、事が正しくなって世が治まらないことはない」と述べた。礼官が唐の故事を用いて五月に大慶殿で朝を受け尊号を上げることを請うと、公著は「陛下は漢唐を度越し三代の復を追う、どうして陰長の日に非礼の会をなし無益の名を受ける必要があろうか」と述べ、これに従った。
  • 二年、御史中丞となる。この時王安石は青苗法を行おうとしており、公著は極言して「古より有為の君で人心を失って治を図ることができた者はいない、また威で脅し辯で勝ちながら人心を得られた者もいない。昔の賢者と言われた者は今皆この挙を非として議を生じているのに、これを一切流俗浮論と詆るのは、どうして昔は皆賢で今は皆不肖だと言えるのか」と述べた。安石はその深切さに怒り、帝は呂惠卿を御史に挙げようとしたが、公著は「恵卿には確かに才があるが姦邪であり用いるべきでない」と述べた。帝はこれを安石に語ると安石はますます怒り、悪語で誣い、潁州を知ることに出した。
  • 八年、彗星が見え直言を求める詔が下ると、公著は上疏して「陛下は朝に臨み治を願って日すでに久しいのに、左右前後で敢えて正言する者がない、陛下に治を欲する心があっても治を致す実がないのは、これは任事の臣が陛下に背いているのだ。士の邪正賢不肖はもとより定まっているものであるが、今そうではなく、前日に天下の至賢と挙げたものを後日には天下の至不肖として逐うのでは、その人材に対する見方がすでに反覆常ならぬのだから政事もまた乖戾で審らかでないだろう。古の政をなす者も初めから民に信じられたわけではなかったが、子産が鄭を治めるに一年で人はこれを怨み三年で人はこれを歌った。陛下は垂拱仰成すること七年、それでも輿人の誦するところは前日と異ならない、陛下は独りこれを察しないのか」と述べた。河陽を知ることに起き、召還されて中太一宮を提挙し、翰林学士承旨に遷り端明殿学士・知審官院に改まる。帝は従容として治道を論じ、釈老に及ぶと公著は「堯舜はこの道を知っていたか」と問い、帝は「堯舜がどうして知らなかったろうか」と答えた。公著は「堯舜はこうであったとしても、ただ人を知り民を安んずることを難としたからこそ堯舜となったのだ」と言った。帝はまた「唐の太宗は権智をもって臣下を御することができた」と言うと、公著は「太宗の徳は己を屈して諫めに従うことができたことにある」と答えた。帝はその言を善しとし、まもなく同知樞密院事となった。
  • 肉刑を復すことを欲する者があり死囚を試して劓刖することが議されると、公著は「試して死ななければ肉刑がついに行われることになる」と言い止めた。夏人がその主を幽じて大挙して討伐しようとすると、公著は「問罪の師はまず帥を選ぶべきである、もし人を得なければ挙げないほうがよい」と述べた。兵が興り秦晋の民力が大いに困ると、大臣は敢えて言わなかったが公著はしばしばその害を白した。元豊五年(1082年)、病により去位を丐い資政殿学士・定州安撫使に除された。まもなく永楽城が陥落すると帝は朝に臨んで「辺民が疲斃することこのようであるのに、独り呂公著だけが朕にこれを言った」と歎じた。揚州に徙り大学士を加えた。太子を立てようとする際、帝は輔臣に「呂公著・司馬光を師傅とすべき」と言った。

哲宗朝の宰相

  • 哲宗が即位すると侍読として朝に還った。太皇太后は使いを遣わして望むところを問うと、公著は「先帝の本意は寛く民力を省くことを先とするものだったが、建議する者は法を変え民を侵すことを務め、自分と異なる者は一切斥け去った、故に日が久しいほど弊はますます深くなり、法が行われるほど民はますます困窮した。誠に中正の士を得て天下の利病を講求し協力してこれをなせば、決して難しいことではない」と述べた。至るとまた上言して「人君が即位した初めにはまさに始めを正すことを天下に示すべきであり、徳を修めて百姓を安んずるべきである、徳を修める要は学問を先にするに越したことはない。学問に光明を継続させれば日新して至治に至れる、これは学の力である。謹んで死を賭して十事を陳じる、曰く天を畏れ、民を愛し、身を修め、学を講じ、賢を任じ、諫を納れ、斂を薄くし、刑を省き、奢を去り、逸を無くすこと」と述べ、また諫員を備え置いて言路を開くことを乞うた。尚書左丞・門下侍郎を拝す。
  • 元祐元年(1086年)、尚書右僕射兼中書侍郎を拝す。三省が並び建てられたが、中書だけが独り旨を取る地とされていたので、三省に事を請う者は執政と同じく進呈し旨を取ってからそれぞれ行うことにした。また執政官は率ね数日に一度政事堂に集まり事は多くその長に決せられていたが、司列はこれに預ることができなかったので、この時から日ごとに集まることを命じ定制とした。司馬光と心を同じくして輔正し、先帝の志を推本し、革むべくして未だ暇なきもの、革むべくして未だ定まらないものは一二挙行した。民は歓呼皷舞して皆便とした。光が薨じると独り国を当り、除される吏は皆一時の選であった。科挙は詞賦を罷め専ら王安石の経義を用い、また釈氏の説を雑えていたため凡そ士子は一語も新義でなければ用いられず学者は正経を誦せずただ安石の書を竊んで進取を図り、精熟する者が上第に転じたため科挙はますます弊した。公著は初めて主司に老荘の書から出題することを禁じ、挙子には申韓・仏書を学として使わせないよう令し、経義には古今諸儒の説を参用させ専ら王氏だけを取らせないようにした。
  • 賢良方正科を復す。右司諫の賈易が言事で訐直に大臣を詆り峻責されようとすると、公著はただ知懐州に罷せるに留め、退いて同列に「諫官の論ずる得失は言うに足りないが、ただ主上は春秋がまさに盛んで、異日諛説によって惑乱される者が進む恐れがある、まさに左右の争臣に頼るしかない、あらかじめ人主に言者を軽んじさせるべきではない」と言うと衆は皆嘆服した。吐蕃の首領である鬼章青宜結が久しく洮河の患いとなっており、朝廷が兵を彌め戍を省いていることを聞き、密かに夏人と謀り再び熙岷を取ろうとした。公著は軍器丞の游師雄を遣わし便宜に応じて諸将に諭させることを白し、月を逾えずして生きたまま闕下に致した。帝は資善堂で近臣を宴し唐人の詩を書いて分賜すると、公著は講じた書の要語で治道に切なるものを集め百篇として進め遊意翰墨・聖学の助けに備えさせた。
  • 三年四月、位を懇辞し司空・同平章軍国事を拝す。宋興以来、宰相が三公として重事を平章した者は四人だが公著は父と共にその二を占め、士はその栄を羨んだ。詔により東府の南に第を建て北扉を啓いて執政の会議に便宜させ、凡そ三省・樞密院の職は皆総理を得させた。間日一朝でそのまま都堂に至り、その出入りが時によらないのは異礼であった。明年二月薨ず。享年七十二。太皇太后は輔臣に見えて泣き「邦国は不幸である、司馬相公がすでに亡くなり、呂司空がまた逝った」と述べ痛閔すること久しかった。帝もまた悲感し、直ちにその家に詣で臨んで奠し金帛万を賜り、太師・申国公を贈り、諡を正献とし、御書の碑首を「純誠厚徳」とした。
  • 公著は少なきより講学し治心養性を本とした。平居疾言遽色なく、声利紛華に泊然として好むところなく、暑に扇を揮わず寒に火に親しまず、簡重清静であった。天稟がこのようであり、その識慮は深敏で量は閎く学は粋であった。事に遇えば善く決し、国に便ならばその心を私利で動かさず、人と交わって至誠より出て徳を好み善を楽しみ、士大夫が人物を意とする者を見れば必ずその知る所とその聞く所を問い参互して実を考え上に達した。政事を議するたびに広く衆善を取って善とし、当に守るべきところに至っては毅然として奪われなかった。神宗はかつてその人材について、権衡が物を称るように欺かないと言い、とりわけ声跡を避け遠ざけて知人をもって自らを処さなかった。当初王安石と善く、安石は兄事したが、安石は博辯にして辞を騁せ人は敢えてこれに抗しなかったが、公著は独り精識約言をもってこれを服させた。安石はかつて「疵吝が毎に自ら勝てない、一たび長者に詣でればすぐ廃然として反る、いわゆる人の意を消させる者は晦叔に見た」と言い、また人に「晦叔が相となれば吾輩は仕えることができる」と言った。後に安石は志を得ると必ず自分を助けると考えていたが、公著はしばしば公議を用いてその過失を列挙したので交情は最後まで続かなかった。講説はとりわけ精しく語は約にして理は尽きた。司馬光は「晦叔の講義を聞くたびに自分の言が煩わしく感じられる」と言った。その名流に敬われることこのようであった。
  • 紹聖元年、章惇が相となり翟恩・張商英・周秩が言路にいたことにより、公著が熙豊の法度を更めたことを論じ贈諡を削り賜った碑を毀した。再び建武軍節度副使・昌化軍司戸参軍に貶される。徽宗が立つと太子太保を追復した。蔡京が政を擅にすると再び左光禄大夫に降された。まもなく銀青光禄大夫に復し、紹興初年、悉く贈諡を還された。子は希哲・希純。

呂希哲

  • 字は原明、若くして焦干之・孫復・石介・胡瑗に学び、また程顥・程頥・張載に従学し見聞はこれにより益々広がった。蔭により官に入る。父の友である王安石は科挙に事えて僥倖の利禄を求めないよう勧め、ついに進取に意を絶った。安石が政をなし、その子の雱を講官に置こうとし、希哲に賢名があるためこれを先に用いようとしたが、希哲は「公相の知遇を辱くすることが久しいが、万一仕えることになれば異同を免れないだろう、そうなれば昔からの相与の意はすべて尽きてしまう」と辞した。
  • 公著が相となった際、二人の弟はすでに省寺に官していたが希哲は独り管庫に滞り、久しくして登聞鼓院を判じたが力めて辞した。公著は嘆じて「当世の善士は私がほとんど収拾し尽くしたが、独り私のためにその子だけは試されずにいる、これも運命であろうか」と言った。希哲の母は賢明で法度があり、公著の言笑を聞いて「これもまだその子を知らないというものだ」と言った。公著の喪が終わってはじめて兵部員外郎となる。范祖禹はその妹婿であるが哲宗に「希哲は経術・操行があり勧講に備えるべきです、その父は常に暗室でも欺かない者と称されました、臣は婦兄の故により敢えて薦めなかったのですが、今まさに引き去ろうとしているので嫌を憚らずに申し上げます」と言い、詔により崇政殿説書とした。その人主を導くには修身を本とし、修身は正心誠意を主とすることを勧め「心が正しく意が誠であれば身は修まり天下は化される、もし身が修まらなければ左右の人でさえ諭すことができないのに、まして天下をおや」と言った。
  • 右司諫に擢されたが辞して聴かれず、密かに范祖禹に「もし請いが聞かれなければ揚畏を先に来させるべき」と語ったが、まもなく拝さなかった。紹聖の党論が起こる頃、御史の劉拯がその進むに科第によらないことを論じ、秘閣校理をもって懐州を知る。中書舎人の林希もまた「呂大防は公著の援引によって進んだのに希哲もこれによって私恩に酬いたのだ、大防らの欺君売国はすべて公著が唱えたもので、公著の悪は希哲が導き成した、どうして華職を汚すべきか」と言い、これにより本秩を守るに留まり、まもなく南京に分司し和州に居った。徽宗初年、秘書少監に召されたが太峻とみなされ光禄少卿に改まった。希哲は力めて外を請い、直秘閣をもって曹州を知り、まもなく崇寧の党禍に遭い職を奪われ相州を知ることとなり邢州に徙り、宮祠に罷され淮泗の間に寓すること十余年で卒した。希哲は楽易簡倹で至行があり、晩年名はますます重くなり遠近の者は皆これを師と尊んだ。子の好問には伝がある。

呂希純

  • 字は子進、登第して太常博士となる。元祐の明堂祭祀で皇祐の故事を用いて天地・百神を並せ祀り皆祖宗を配することにしようとすると、希純は「皇祐の礼は経に見えず、嘉祐にすでに釐正され元豊中に至っては英宗をもって上帝に配し従祀の群神を悉く罷めて厳父の義を得ている、その式に循うべきである」と述べこれに従った。宗正・太常・秘書丞を歴任する。哲宗が后を納れる議の際、希純は「三代の昏礼を考え祖宗の制を参照し、族を博く訪ねて徳配を求めるべきで、凡そ世俗のいわゆる勘婚の書は浅陋で経に非ざるものだから一切屏絶して附会を防ぐべきである」と請うた。著作郎に遷ったが父の諱により拝さず、起居舎人・権太常少卿に擢された。
  • 宣仁太后が崩ずると希純は姦人が問いに乗じて説を進め主聴を揺るがすことを慮り上疏して「元祐初年より太皇が政を聴いて以来、用いた人は皆宿より時望あり行った事は皆人の願うところだった。ただ過悪あり罪を得た徒だけが日々変故を伺い、権利を捭闔している。今必ず神宗の法度を改めることを言い立てるだろうが、臣は先帝の功烈は万世掩うことができないと思う、その間数事が小人に誤られたことがあり、勢いは頗る損益があったが聖徳に虧けるところはない、しかも英宗・神宗もまた何度も真宗・仁宗の政を改めたことがあるし、真宗・仁宗の政もどうして皆太祖・太宗の法を用い尽くしたわけではない。小人はすでに先帝を誤らせ、また陛下を誤らせようとしている、察せざるべからず」と述べた。まもなく中書舎人・同修国史を拝す。内侍の梁従政・劉惟簡を内省押班に除するとき、希純は親政の始めにまずこの二人を録すれば天下に示すところがないと持して行わなかった。これにより宦官はこれを側目視し、庭中でこれを指して「この二押班の詞頭を繳し還した者だ」と言う者もいた。
  • 章惇が相となると寶文閣待制・知亳州に出された。諫官の張商英は希純を憾んでこれを力めて攻撃し、また外親の嫌により連座して睦州・帰州に徙り、京東から浙西へ、浙西から三峡を上るのは、名目は易地だが実は困らせるものであった。公著が追贈を貶されると希純もまた屯田員外郎をもって南京に分司し金州に居り、また舒州団練副使・道州安置に責められた。建中靖国元年、還されて待制・知瀛州となる。徽宗はその名を聞いてしばしば称えたが、曾布は希純を忌み、その請覲に因り未だ見えないうちに急ぎ辺遽をもってこれを遣わした。まもなく潁州に改まり、崇寧の党籍に入り卒す。享年六十。

史論

  • 公著父子は共に位が宰相に至り、共に司空をもって軍国事を平章した。漢の韋平、唐の蘇李の栄盛もこれに加えられようか。夷簡は智数に富んだが、公著は一切持正をもって天下の務めに応じた、ああ賢なるかな。その人才を論ずるさまは権衡が物を称るがごとくで、一時の賢士はほとんど収拾し尽くされた。司馬光は病が甚だしい時に諄諄として国事を託したが、当時の廷臣で公著に及ぶ者はなかった。詳らかにその平生の事業を考えれば、思うに守成の良相であった。しかし子の賢を知りながら薦めることができなかったのは、あるいは避嫌を免れず従祖に愧じるところがあったのだろう。希哲・希純は世々その美を済したが皆崇寧の党禍に陥った、どうして君子の不幸ではなかろうか。