宋史卷三百三十六 列傳第九十五 司馬康

司馬康

  • 字は公休、幼くして端謹で妄りに言い笑わず、父母に事えて至孝、学に敏くして人に過ぎ、古書に博通し明経で上第となった。光が資治通鑑を修める際、文字の検閲を奏請した。母の喪では勺飲すら三日口に入れず毁して幾ど命を滅ぼしかけた。光が洛にいた時、士でこれに学ぶ者は退いて康と語ると未だかつて得るところがないことがなく、道行く人はその容止を見て識らなくても皆司馬氏の子と分かった。韓絳の薦めにより秘書となり正字から校書郎に遷った。
  • 光が薨じると治喪は皆礼経・家法を用い世俗の事を為さず、得た遺恩は悉く族人に与えた。服除して著作佐郎兼侍講に召される。上疏して「近年来旱暵が虐威をふるい民は多く食に艱み、もし再び不作となれば公私は困竭し盗賊が起こる恐れがある。古の聖賢の君主も水旱がなかったわけではないが、これに備えがあったため甚だしい害とならなかった。今秋の熟に及び州県に広く民食を糴させ余りは悉く官に帰させ、今冬から来春にかけて流民を就食させ郷里が豊穣になれば本土に還らせるべきである。国を為す者は一絲一毫も惜しむべきだが、民を済うことだけは吝しむべきでない、誠に数十万の金帛を捐てて天下の大本とすれば天下は幸甚である」と述べた。右正言を拝したが親嫌のため就職しなかった。哲宗のために前世は治まる時が少なく乱れる時が多かったこと、祖宗創業の艱難と積累の勤労を述べ、帝に時に及んで学に向かい天下の大器を守ることを勧め、また太皇太后が禁中で常に訓導することを勧めた。邇英での進講でまた「孟子は書の中で最も醇正であり王道を陳ずるところが最も明白なので観覧すべきである」と言うと、帝は「まさにその書を読んでいる」と述べ、まもなく講官に節して進めるよう詔した。
  • 康は父の喪に居てより廬に居り疏食し地に寝たので腹疾を得て、この時朝謁できず優告を賜わったが病はほとんど殆いほどで、なお言うべきことを疏に具え「一たび天子に見えて極言して死ねば恨みはない」と待った。医の李積を兗から召わせると積は老いていたが郷民がこれを聞き「百姓は司馬公の恩を深く受けた、今その子が病んでいる、願わくば速やかに行ってほしい」と告げ、来る者が日夜絶えなかった。積はついに行ったが至った時にはもう手の施しようがなかった。享年四十一で卒す。公卿は朝で嗟痛し士大夫は家で相弔い、市井の人も哀しまない者はなかった。詔により右諫議大夫を贈られた。康は人となり廉潔で口に財を言わなかった。当初光が神道碑を立てた際、帝は使者を遣わし白金二千両を賜ったが、康は費用が皆官給であることを理由に辞して受けず、聞かれず家吏に京師に納めさせてようやく止めた。

史論

  • 熙寧の新法は民を病ませ海内を騒動させ、忠言讜論は沮抑されて行われず、正人端士は擯棄されて用いられず、聚斂の臣は日々進んで民でその虐を被る者は将に二十年に及んだ。この時、光は洛に退居して終身を過ごすかのようであったが、世の賢人君子から庸夫愚婦に至るまで日夕引き頸してその相となることを望み、あるいは道路で号呼して朝廷を去らないことを願う者もいた。これはどうしてわずかな才智で人々からこのような望みを得られようか、徳の盛んなことと誠の著しいことによるものである。一旦起って政をなすと毅然として天下を自任し、言路を開き賢才を進め、新法で民の害となるものはことごとく次第に取って更張し、数月の間に剗革ほとんど尽き、海内の民は寒極まって春が来たかのように、旱極まって雨が降ったかのように、倒懸を解かれ桎梏を脱し水火の中から出されたかのようであった。相与に咨嗟歎息し驩欣皷舞して、あたかも再生したかのように一変して嘉祐・治平の治となり、君子はその旋乾転坤の功があったと称えたが、光もこの時すでに老いかつ病んでいた。天がもし宋を祚し、この一老を憗み遺していれば、姦邪の勢いは急には張らず紹述の説も急には行われず、元祐の臣もまた無恙であっただろう。人衆は天に勝てるが、靖康の変はあるいは少しは緩められたのではないか。たとえそうであったとしても、当にこれほど酷くなることはなかっただろう。詩に「哲人云に亡す、邦国殄瘁す」とあるが、まさに悲しむべきことである。康は美を済し賢に象るものであったが、不幸にして短命に死し、世はますますこれを惜しんだ。しかし康が死ななければ紹聖の禍を免れなかっただろう。