宋史卷三百三十五 列傳第九十四 种朴

种朴

  • 父の任により右班殿直となり積労で皇城使・昌州刺史に遷った。熙河・蘭会鈐轄に徙り知河州を兼ね洮西沿邊公事を安撫した。河南の蕃部が叛き属羌の阿章が他族を率いて官軍を拒むと、熙帥の胡宗回は朴に討伐させた。この時朴は州に至ってわずか二日、賊の勢いが鋭く盛んな寒中であったため、しばらく緩めようとしたが、宗回は六七度も檄を馳せたのでやむを得ず出兵した。羌は朴が来ることを知り伏兵で待ち構え、朴は伏に遭い首尾相応じず、力戦して賊に殺されたが、馬にその屍を負わせて去った。羌は勝ちに乗じて追撃したが、師が還る際に隘路に壅がれ迮まり進めなくなった。
  • 偏将の王舜臣という者は射に善く、弓を臂に掛けて敗軍の後方に独り立った。羌が来ること万騎にも及び、七人が馬に甲を着けて先んじたので、舜臣はこれこそ羌酋の最も桀黠な者であり、先に殪さねば我が軍は全滅すると考え、「私の令する最も先んずる者は眉間に花を挿せ」と宣言し弓を引き三発すると三人が命中し、残る四人は反転して走ったが矢はその背を貫いた。万騎は驚愕し敢えて前進する者がなくなった。舜臣はこれによって衆を立て直すことができ、しばらくして羌が再び来ると、舜臣は申の刻から酉の刻まで千余発の矢を放ち一発も虚しく終わることなく、指は裂けて血が肘まで流れた。薄暮にようやく隘を越えることができ、将士は気を奪われ敢えて再び戦を言い出す者はいなかった。この時、舜臣がいなければ師は殲滅していただろう。事が聞こえると朴に雄州防禦使を贈り、その後裔十人に官を与えた。