种師道
- 字は彛叔、若くして張載に学び、蔭により三班奉職に補せられ、法を試して文階を易え熙州推官となる。同谷県を権知した際、県吏に田訟があり二年決着しなかったので、師道は案牘を繙閲し日を尽くしても終わらなかったが、訴えるところは母と兄に過ぎないと分かり、吏を引いて詰って「母兄を法で訴えられるものか、お前は再期にわたり郷里を騒がせた、まだ足りないか」と言うと、吏は叩頭して罪に服した。原州通判、秦鳳常平を提挙し役法を議して蔡京の旨に忤い荘宅使に換わり徳順軍を知る。また先烈を詆毀したとして罷せられ党籍に入り屏廢すること十年、武功大夫・忠州刺史・涇原都鈐轄・知懐徳軍となる。
- 夏国が境を画す際、その人焦彦堅が故地を必ず得ようとしたので、師道は「故地というなら漢唐を正とすべきだ、そうすればあなたの家の疆土はますます縮まるだろう」と言い、彦堅は答えられなかった。童貫が兵柄を握り西に翕張威福を振るうと、これを見る者は皆旅拝したが、師道は長揖するのみだった。詣闕を召され、徽宗が辺事を訪ねると「まず勝てないようにしておいて、来たら応じる、妄動して事を生じさせるべきではない」と答えた。童貫が内郡の弓箭手を徙して辺を実にすることを議し、新しい辺境として指定される所として募られることを指摘した際、帝が再び訪ねると「臣は遠くの功が未だ立たないうちに近くの擾乱が先に至ることを恐れる」と答えると、帝はその言を善しとし襲衣・金帯を賜って秦鳳弓箭手を提挙とした。この時五路に並んで官を置き、帝は「卿は朕が自ら擢したのだ」と言ったが、童貫はこれを不悦に思い、師道は敢えて拝せず崇福宮の提挙を請うた。
- しばらくして西安州を知る。夏人が定辺を侵し佛口城を築くと師道は師を率いて赴き平定した。当初、至った時ひどく喉が渇いていたので師道は山の西麓を指して「ここには必ず水がある」と述べ工に求めさせると果たして水を得た。累遷して龍神衛四廂都指揮使・洺州防禦使・知渭州となる。諸道の兵を督して城を席葦・土賦の工とし、敵が至ると堅く葫蘆河を守り、師道は河滸に陣して決戦するように見せかけながら、密かに偏将の曲充を横嶺から出させ援兵が至ったように揚言させると、敵はまさに驚愕し、その隙に楊可世が潜軍でその後を襲い、姚平仲が精甲でこれを衷撃すると敵は大潰し斬首五十級、橐駝・馬牛を万計獲た。その酋は僅かに身をもって免れ、卒に城を築いて還った。また詔により陝西・河東七路兵を帥いて臧底城を征し、旬日で必ず克つことを期した。城下に迫ると敵の守備は甚だ固く、官軍がやや怠り列校の中に胡床に拠って休む者があったので師道はこれを立ちどころに斬りその屍を軍門に晒し「今日城を下せなければこれを見よ、股栗するだろう」と令すると、譟いで城に登り城はすぐに潰えた。この時兵が至ってわずか八日であった。
- 帝は捷書を得て喜び、侍衛親軍馬軍副都指揮使・応道軍承宣使に進み、童貫に従い都統制を拝す。童貫は燕を伐つことを謀り師道に諸将を尽く護させたが、師道は「今日の挙は例えるなら盗人が隣家に入るのを救えなかった上に、それに乗じてその財産を分け取るようなものだ、不可ではないか」と諫めたが童貫は聴かなかった。白溝に次すると遼人が譟いで進み士卒に多くの死傷が出た。師道は先に人に巨挺一つずつを持たせて自ら防がせていたため大敗を免れた。遼使が来て「女真の叛は本朝もまた甚だ憎むところである、今わずかな利益を射て百年の好誼を棄て豺狼の隣と結べば他日の禍を基すことになる、これを得策と言えるか、災いを救い隣を恤むのは古今通義であり、大国はこれを図られたい」と請うたが、童貫は答えられなかった。師道は再び諫めこれを許すべきと述べたが、また聴かれなかった。密かに童貫が賊を助けたと弾劾すると、王黼は怒って右衛将軍として致仕させ、劉延慶を代えて用いた。延慶は盧溝で敗績すると帝はその言を思い出し憲州刺史・知環州として起用し、まもなく保静軍節度使に還り再び致仕した。
- 金人が南下するとこれを急ぎ召し、検校少保・静難軍節度使・京畿河北制置使を加え、便宜に応じて兵食を檄することを聴された。師道はこの時南山豹林谷に居たが命を聞いてすぐ東に赴き、姚平仲が歩騎七千を率いて共に北上した。洛陽に至り斡離不がすでに京城下に屯していると聞き、あるいは進軍を止めて氾水に少し駐まり万全を謀るべきと言う者があった。師道は「わが兵は少ない、もし遅疑して進まなければ形が見え情勢が露見しかえって辱を招くだろう。今鼓行して前進すれば都人はわが来ることを知り士気は自ら振るう、なぜ賊を憂えることがあろうか」と言い、沿道に牓を掲げて「种少保が両道の兵百万を率いて来る」と揚言させ、城の西に抵り汴水に趨いて南から敵営に迫った。金人は懼れて砦を北に移し、遊騎を集めて牟駝岡を守るだけとなり塁を増して自衛した。この時、師道は年老いており天下は「老种」と称した。欽宗はその至ると聞いて大いに喜び安上門を開き、尚書右丞の李綱に迎え労わせた。この時すでに講和が議され師道が入見すると帝は「今日の事、卿の意はどうか」と問い、師道は「女真は兵を知らない、どうして孤軍で人境深く入りながらその帰還を全うできようか」と答えた。帝が「すでに講好している」と言うと、師道は「臣は軍旅の事をもって陛下に仕えるので、それ以外は知るところではない」と答えた。
- 検校少傅・同知樞密院・京畿両河宣撫使を拝し諸道兵は皆これに隷し、平仲を都統制とした。師道はこの時病を患い拝礼を免ぜられ肩輿で入朝することを許された。金使の王汭が廷にあり師道を頡頑して望見すると拝跪して稍礼に従った。帝は顧みて笑って「彼が卿のためにこうしているのだ」と言った。京城は包囲を受けて以来諸門は皆閉ざされ市には薪菜がなかったので、師道は西南壁を開いて民が常のように出入りできるよう請うた。金人の中に偏将の馬忠の軍を勝手に越える者があり、馬忠がその六人を斬ると、金人が来て訴えたので師道は界旗を付して自ら制せさせ、それ以後越える者はいなくなった。また金幣を緩やかに給しその帰りを怠らせ河において扼して殲滅することを請うたが、執政は不可とした。
- 种氏・姚氏は共に山西の巨室で、平仲の父の姚古がちょうど熙河兵をもって入援していたが、平仲は功名が独り种氏に帰することを慮り、士が速戦できないことを言上して達し、李綱がその議を主って城下の兵は緩急に応じて平仲の節度を聴くこととした。帝は「使者を遣わし師道に戦を促せ」と言ったが、師道はその弟の秦鳳経略使師中の到着を待とうとし、春分を過ぎればようやく攻撃できると奏した。時に相距たること八日であった。帝はこれを緩慢とし平仲を用いて営を斫らせたが敗北した。敗れてから李邦彦が三鎮の割譲を議すると師道はこれを争ったが果たされなかった。李綱が罷せられると大学の諸生や都人は伏闕して种・李に見えることを願い、詔により師道に趣かせ彈圧させると、師道は車に乗ってやってきたので、衆は簾を褰げて視て「果たしてわが公である」と言い、相率いて声を挙げて散った。
- 金師が退くとまもなく罷せられ中太一宮使となる。御史中丞の許翰は帝に見えて師道の兵柄を解くべきでないと言うと、帝は「師道は老いている、用いにくい、卿に会わせよう」と言い殿門外で相見させた。師道は語らなかったので、翰は「国家に急があり詔により疑いのある所を訪ねる、公は書生のためだと言って語ることを肯じないでほしくない」と言うと、師道はようやく「わが衆は多く彼は少ない、ただ兵を分けて営を結び要地を控守し、彼らの糧道を通じさせなければ持久して破ることができる」と述べた。翰は嘆じてその言を吟味し、上奏して「師道の智慮は未だ衰えず、なお用いるべきだ」と述べたので、検校少師を加え、太尉に進み、鎮洮軍の節を換えて河北河東宣撫使となり滑州に屯したが、実際には随行する兵がなかった。師道は関河の卒を合わせて滄・衛・孟・滑に屯させ金兵の再来に備えることを請うたが、朝論は「大敵がまさに退いたばかりで師を労し弱を示すべきでない」として用いなかった。まもなく師中が戦死し姚古が敗れると、朝廷は震悚し師道を召還した。大原が陥落すると、また辺境を巡らせ河陽に次する途中、王汭に遇い敵が必ず大挙するだろうと察して急ぎ長安に幸して鋭鋒を避けることを請う疏を上げたが、大臣はこれを怯だと考え、再び召還した。至った後病により見えることができず、十月に卒す。享年六十七。帝は臨んで哭し慟き、開府儀同三司を贈った。京師が失陥すると帝は胸を撫ち「种師道の言を用いなかったためにこうなった」と言った。金兵が始めて退いた際、師道は前議を重ねて申し帝に半渡を乗じて撃つことを勧めたが従われなかった。異日必ず国患となるだろうと言ってその言を追痛した。建炎中、少保を加贈され、諡は忠憲とされた。