出自と経歴
- 字は景叔。京兆武功の人。張載に学び進士に及第、儀州司戸参軍に。徳順軍判官に転じる。鄜延将の劉琯が主帥と戦守の策を議論した際、延安から安定・黒水に入る計画があったが、游師雄は「地形が薄く敵境に近く伏兵の恐れがある」と警告。斥候により西夏軍が黒水付近に精鋭騎兵を伏せていることが確認され、劉琯は「あなたの助言がなければ私は帰れなかった」と謝した。
- 趙卨が延安の帥になると招かれ、西夏が辺境を乱していた際に別堡の龍安以北の諸城は兵力が弱かったため、游師雄は義勇を発して守らせ、城上に石を多く積んで備えさせた。西夏はこの備えを知り侵入せず、荒堆・三泉だけを襲って退いた。飢饉の際は諸堡を巡って穀物を貸し口数に応じて配分し餓死者を出さなかった。石を運び甲を固め溝を深くし城壁を修繕し、辺境の備えはさらに固まった。
- 元祐初年、宗正寺主簿に。執政が四砦を放棄しようとした際、游師雄に諮ると「これは先帝が西夏を制するために設けたもの、なぜ放棄するのか。中国の弱腰を示すだけでなく敵の際限のない要求を招くことになる、瀘・戎・荊・粤も同様に求めてくればどうするのか。万一契丹が使者を送り関南十県を求めてきたらどうするのか」と反対、放棄は取りやめられた。そこで『分疆録』を著した。軍器監丞に進む。
- 吐蕃が辺境を侵し、酋長の鬼章青宜結が機に乗じ属羌を脅して西夏と結び熙河を分割しようとする陰謀があった際、朝廷は適任者を選んで辺臣と対応させることとし、詔で游師雄に便宜従事を命じた。現地に赴くと、西夏軍が天都山に兵を集め先鋒が通遠境に屯し、吐蕃将が河州を攻めようとしていることを察知。游師雄は先手を打つべきと考え、帥の劉舜卿に相談すると「彼我の兵力差から無理だ」と言われたが、游師雄は「謀は数ではない、もし失敗すれば私が首を差し出す」と論じ三日議論の末に決した。
- 兵を二手に分け、姚兕を左、种誼を右に配置。姚兕は六逋宗城を破り千五百の首を斬り、講朱城を攻め黄河の浮梁を断ち、青唐の十万の衆を渡らせなかった。种誼は洮州を破り鬼章と大首領九人を捕らえ千七百の首を斬った。捷報が届くと百官が賀表を上げ、使者を永裕陵に派遣して報告し厚賞が予定されたが、批判する者が「功を求め事を起こした」として一階しか進まなかった。
- 陝西転運判官・秦鳳路刑獄提点に。西夏が涇原を侵し熙河にも再び侵入した際、「蘭州は敵から一舎の距離で通遠から百里に満たず険しい山地の防壁もない、定西・通渭の間に安遮・納迷・結珠の三柵と護耕の七聖を建てて藩籬を固めるべき、これは無窮の利」と論じ、詔で范育に任され初議通りに実施された。祠部員外郎に入り集賢校理を加え陝西転運使に。内地から辺境への穀物輸送が輦僦の負担になっていたため「以前は辺土が耕されず内地からの供給に頼っていたが、今は既に穀物が多く軍食は自足しているので、内地からの輸送量を調整して負担を減らすべき」と論じ認められた。
- 召見の際、哲宗は「洮州の戦いは優れた功績と言えるが賞が薄すぎたのを恨みに思っている」と労い、游師雄は「すべて廟算(朝廷の計画)のおかげで私に何の功があろうか、ただ当時の将士の功労が記録されなかったのが心残り」と答え、その顛末を陳述した。衛尉少卿に拝される。
- 哲宗がしばしば辺防の利病を尋ね、游師雄は慶暦以来の辺臣の施策の善し悪しと朝廷の議論の得失、当今の対敵の要諦、合わせて六十事を具え『紹聖安辺策』として上奏した。邠州・河中府知事を経て直龍図閣を加え秦州知事に進む予定が、着任前に熙州の摂職を命じられた。西夏の侵冦に対し使者と熙・秦両帥が共に方策を練ることになったが、使者は攻撃に前のめりで、游師雄は「進築で城塁を築いて防御に徹すべきで、席捲するような深入りは無用」と主張。争ったが聞き入れられず、使者は攻取の困難を悟り結局游師雄の策に従った。
- 洮州回復以来、于闐・太食・勿林・邈黎などの諸国はいずれも畏れて使者を送り朝貢していたが、朝廷は熙河に二年に一度の朝貢に制限させようとした。游師雄は「これでは遠方の人を招く道にならない」と反対。まもなく秦州に戻り陝州知事に転じ60歳で没した。慷慨豪邁で事業への志を持っていたが、その才を十分に発揮できなかったことを議者は惜しんだ。