出自と経歴
- 字は誠之。楚丘の人。15歳で時政を論じる封事を上奏。父の李緯は涇原都監であったとき、西夏十余万が鎮戎を犯し、緯は兵を率いて出撃したが、帥司が派遣した別将の郭志高が逗留して進まなかったため、諸将は寡兵で対抗できず出撃できなかった。緯はこの責で降格処分となり、李師中は宰相にその冤罪を訴えたが、時の宰相呂夷簡は詰問して屈しなかった。呂夷簡は「布衣が言うべきことではない」と怒ったが、李師中は「私が言うのは父のことです」と答え、これで名が知られるようになった。
- 進士に及第。鄜延の龎籍に招かれ洛川県知事に。農繁期に罪を犯した者は農閑期に帰らせて自ら出頭させ、租税は期限前に集まった。官への茶代十万緡の未払いで多数が拘留されていたが、李師中はその桎梏を解き「公銭は必ず返す道理があるはず、返済期限を緩めればどうか」と諭すと感泣して従い、郷ごとに箱を置いて名を記録し、一銭以上返済すれば投函して帳簿に記す仕組みを作り、一年経つと未納者はほぼ完済した。
- 諸郡の粟を辺境に移した後、逆に戻すことになり、真冬の大雪の中で労力と費用がかさみ、安値で兼併の家に売る羽目になっていたが、李師中は自ら出向いて希望者に輸送させ、庾門に座って契約を執行し数日で万石を得て、この方法を他県にも広めさせた。
- 郷亭を巡視した際、宋の興った戦争時代に入植した戎人が混住しており、婚姻関係を結んだまま帰らないでいることを問題視し、経略使に報告して近隣の郡の者もあわせて辺塞に移した。
- 龎籍が枢密副使になると才を推挙され召見、太子中允・敷政県知事・経略司の文字管掌に。西夏が歳賜の延期を求めた際「歳末を過ぎないように」との詔を吏が誤って伝達したため、李師中は牒を出して旧例通りに改めたが、枢密院は制書の擅改として弾劾。李師中は「改めたのは郡の牒であって制書ではない」と反論し、朝廷はこれを認めた上でその過失を軽く扱った。
- 広西刑獄提点。桂州の霊渠は古くから漕運に使われていたが年久しく石が詰まり舟の通行が滞っていたのを、火で石を焼いて開削し通じさせた。邕管には馬軍五百がいたが夏に馬が多く死ぬため、地形が険阻で騎兵を用いる必要がないと上奏して廃止させた。
- 士人の補攝官の任命について選考が乱れ吏が権限を握っていた慣行を改め、名簿を記録して家で待たせる制度を整えた。当時、邕州の蕭注と宜州の張師正が辺境を挑発する策を企てており、蕭注は管下の蛮峒の酋豪を率いて交阯を討とうとし「朝廷の兵糧を用いない」と主張していた。詔がこの案の是非を経略使蕭固・転運使宋咸に諮問したが、両者は蕭注の意に迎合し賛成の意見を出した。李師中が着任すると詔によりこの案が示され、李師中は蕭注を呼んで「あなたは酋豪の軍だけで交阯を討伐して必勝を保証できるか」と問い、蕭注は「できない」と答えた。李師中は「必勝を保証できないなら失敗した場合どうするのか」と述べ、蕭注はこの案を諦めた。
- 蛮猺の申紹泰が入って逃亡者を追撃中に廵検の宋士堯を殺害した事件で、蕭注はこれをことさら誇張して奏上し仁宗は憂慮したが、李師中は「憂うに足りない」として蕭注が功を求めて事を起こし、搾取で民心を失った結果と弾劾。法により斬に当たるとして蕭注は泰州安置に、蕭固・宋咸も坐して貶された。
- 李師中が帥事を摂している間、交阯が境上で兵威を示し侵冦をほのめかしたが、李師中は落ち着いて宴を続け、六榜(掲示)を作って境上に掲げて実情を明らかにさせたため、交阯は動くことができず即座に方物を貢いだ。紹泰は恐れて巣を捨てて逃げた。儂智高の子儂宗旦が火峒に拠って部族を抱え、周囲の将は討伐で恩賞を狙っていたが、宗旦は固く守っていた。李師中は禍福を諭す檄を出し、宗旦はその族を率いて降伏、辺人はその徳に感化され肖像を描いて祠を建て「桂州李大夫」と称し名を呼ばなかった。
- 済州・兗州の知事に戻る。済水が長く堙塞していたので旧道を訪ねて兗城の西南から開削工事を始めたが、途中で転任となった。直史館・鳳翔府知事に。种諤が綏州を取った際、「西夏はちょうど朝貢中であり反乱の兆候は明確でない、これに乗じて牽制すれば釁端を開くことになる」と述べた。鄜延路が西夏の綏州・銀州駐兵を偵知し諸路に牽制を求めた際、李師中はその害を論じ、諸将が出兵を求める中「出兵しなければ罪は帥(李師中自身)にあり将の憂いではない」と述べたが、結局この計画は取りやめとなった。
- 熙寧初年、天章閣待制・河東都転運使に。西夏人の侵冦に対し秦州知事に任じられ、詔で班超伝を賜った。李師中は持重を旨とし全体の大局を重視、以前は境界に大軍を屯していたため寇が来れば鋭鋒を受けて内は無防備であったが、李師中は防御に優れた者を城塞に配置し、優れた戦い手を中央に配して「寇が来れば堅く守り、去るときに追撃する」と定め、この方針が定着すると常に勝利を得た。
- 王韶が渭・涇の上下両城を築き武勝軍を脅かし洮河の諸部を招撫していた件について、李師中は「今の築城は大規模な兵の動員と大宣伝を伴い、蕃部が納土したり弓箭手が招かれたりすれば西蕃・洮河・武勝軍の部族が疑心を抱く。今は青唐・武勝・洮河の諸族を先に招撫し、彼らが望むままに応じて兵を出し城堡を築いて西夏の掠奪を絶てば、部族は自ずと帰服するだろう。唐が西域で獲得のたびに州を建てたが後に全て失陥し、清水を境界としたのは、根本の計画が実を伴わず腹心の患を除かないまま遠略を求め土地を貪ったからで、これまでこの轍を踏まなかった例はない」と論じ、詔により李師中はこの職を罷免された。
- 王韶が市易法を導入し辺境の未開墾地の耕作募集を求めた案にも反対したが、王安石は王韶を支持しており、反覆を理由に李師中は職を削られ舒州知事に左遷。洪州・登州・斉州を経て待制として瀛州知事に復帰。司馬光・蘇軾らを召して側近に置くよう求めた際、時政の得失を論じつつ自ら「天が微臣を生じたのは聖世に仕える臣のためだ、陛下はこれを見捨てられるだろうか」と述べたことが、呂惠卿にその言葉を「陛下を軽んじるもの」として和州団練副使に貶されるきっかけとなった。その後右司郎中に復し66歳で没した。
- かつて州県での勤務中、包拯が参知政事になったとの噂に「朝廷はこれから多事になる」と言う者がいたが、李師中は「包公に何ができようか、今の鄞県知事王安石という者は白目が多く王敦に似ている、あの男がいつか天下を乱すだろう」と述べ、20年後にこの言葉は的中したという。志は高く、進見のたびに天人の際と君臣の大節を論じ、進賢退不肖を宰相の考課法とすべきと主張、在官では威罰よりも信を重んじ、明察をもって民を治め去る日には民が道を塞いで泣き馬が進めなかったという。杜衍・范仲淹・富弼はいずれもその王佐の才を推薦したが、大言を好んだため世に容れられず幾度も左遷された。それでも気概は衰えなかった。