出自と経歴
- 字は応之。建州甌寧の人。及第後、会昌県令に。民が酔って夜に喧嘩し、帰宅後に近親者に殺された事件が起こり、犯人は仇のせいにしたが、謝麟は死者に子がなく、近親者がその財産を奪う目的であったことを見抜き、取り調べで真相を得た。
- 石首県令に転任。県は江水の被害に苦しみ堤で防げなかったが、謝麟は石を積んで防ぎ、以後人々は安堵し「謝公堤」と呼んだ。
- 辰州通判のとき、章惇が湖湘を巡撫し沅州を拓く際、謝麟を推薦して太守とし、太常博士から西上閤門副使に転じた。猺賊が辰渓を犯した際、討伐と招撫を並行して行い一帯を安定させた。詔により宜州の経制を担当し、獠人が投降した種落は四千八百人、思広洞の民千四百戸が帰属し、鎧甲二万を得て手厚い褒賞を受け、果州刺史を加えられ荊南・涇州・邠州の知事となる。
- 元祐初年、朝議大夫・直秘閣として潭州知事に復帰、直龍図閣を加えられ、江寧・鳳翔府・渭州・桂州の知事を歴任。融江に夷の警戒事態があり、将吏が討伐を議論した際、謝麟は計略でこれを平定した。北方から来た戍兵が水土に慣れず苦しんでいたため、土地の者を南方に派遣し北兵は近郡に駐屯させることで多くを守り抜いた。任地で没した。