宋史卷三百三十 列傳第八十九 張瓌

出自と経歴

  • 字は唐公。張洎の孫。進士に及第。婦の父王欽若に嫌疑がかかった際は召試を受け、学士院で秘閣校理を賜り、同知太常礼院に。銭惟演の諡について「文墨」とされたことに息子が登聞鼓を撃って訴え出た事件で、仁宗の下問に対し張瓌は条理を尽くして上奏し朝廷はその主張を退けられず、諡を「思」と改めさせた。温成廟の祠享が神御と同等の礼であったことに対しても礼を簡略化するよう求めた。
  • 吏部南曹判、開封府推官を経て洪州知事に。営校が労役の監督が厳しすぎることを恨み、夜に殺害を企てる兵三百人が門で騒いだ事件では、翌日に取り調べ、首謀者十人を処罰しつつも軍校の交替は行わなかった。
  • 積んだ功労で十年間昇進が滞っていたが、文彦博の推薦で特進を得て、両浙転運使に転じ、直史館を加えられて頴州・揚州知事、淮南転運使を歴任。三司が各道に余剰財の上納を厳しく求めた際、淮南だけが金九銭三を上納したことで三司使の怒りを買い譴責されたが、張瓌は「賦の額が民の貧困に対応している」と応じた。
  • 修起居注・知制誥として、故相劉沆への贈官の詔を起草した際、劉沆が権力に取り入って高位を得たことを厳しく記した。劉沆の子劉瑾が子弟・婦女を率いて喪服姿で朝廷に哭訴し、張瓌が私怨から侮辱的な文言を用いたと訴えたが、執政は「褒贈は恩典であり、張瓌が拒否すべきものではない」として黄州知事に左遷させた。劉瑾は結局父の諡号を改めて求めることはできなかった。
  • 判流内銓に戻り、英宗の時代、先朝で早く皇太子を定めるよう主張した者たちの議論が再燃した際に、左諫議大夫・翰林侍読学士に進む。劉瑾が再びその判銓時代の子の異動が法に反すると訴え、濠州に左遷。応天府・河南・河陽を歴任し、太平州知事を求めた。
  • 生涯人材を推挙したが、推挙した相手がその後期待外れでも自分から進んで責任を取ることはなかった。それゆえ再度階を削られたが、事に臨んでは物を言い、権勢に逆らって幾度も左遷されても悔いることはなかった。70歳で没した。