宋史卷三百二十八 列傳第八十七 黄履

出自と経歴

  • 字は安中。邵武の人。若くして太学に遊び進士に挙げられ、南京法曹・高密広平王二宮教授・館閣校勘・同知礼院を歴任、監察御史裏行に抜擢されたが辞退し崇政殿説書兼知諫院に改まった。神宗が天地合祭の是非を尋ねた際「国朝の制では冬至に圜丘、夏至に方沢で祭天地を行い古に合っている、有司の摂事では尽くせないため三歳一郊で親祭する制度も時宜に適っており今も改める必要はない、ただ合祭のみは正すべきだが、他にも礼文の失があるので有司に命じ諸祀を一代の損益の制として正すべきだ」と論じ、局を置いて詳定させ履がこれを統括した。北郊の議論はこれで定まり、同修起居注・知制誥・同修国史に進んだ。
  • 母の喪に服したのち礼部尚書として召され、閩省の塩法が言者に苦情される中、神宗は「履は閩の出身だからこれを決するに適している」と述べたが、履は現行法の便宜を陳べたため改革は行われず、郷里の評判は落ちた。御史中丞に遷り、大臣が些細な過失で罰金されることが多いことに対し「賈誼の『礼を以って遇すれば群臣は自ら喜ぶ』の言を引き、罪があれば黜けるか恕して赦すべきで、罰して辱めるべきではない」と論じた。侍郎以下の独対を禁じる制度に対しても「遠外の微官にすら独対を許しながら侍従には許さないのはおかしい」とこれを覆した。御史の翟忠が上言の出所を詰められた際は「御史は言をもって職とし、聞いたことのみを言うのに出所を追及すれば懲罰と受け取られ台諫が萎縮する」と諫め沙汰止みとなった。
  • 哲宗即位後、翰林学士に転じたが、蔡確・章惇・邢恕と結び、確・惇が誰かを嫌う度に恕が意を伝え履はこれに従い排斥した。哲宗の擁立に功があったと自任し、劉安世にその罪を暴かれ龍図閣直学士・知越州に落ち、御史の不当な推挙で天章閣待制に降格、舒・洪・蘇・鄂・青州、江寧・応天・頴昌府を歴任。紹聖初め龍図閣直学士に復し御史中丞として呂大防・劉摯・梁燾の垂簾時の事を極論し典刑の正しい適用を求め、司馬光の変更した先朝の法を罪と論じた。北郊の議論は既に定まっていたがまだ実施されておらず、履はさらに「陽は復し陰は消え、上は円下は方でそれぞれ形に順う、聖人は天に因って天を祀り地に因って地を祀る、三代から漢までこの儀は変わらなかったが王莽が元后に諂って地位を同席させたのを歴世踏襲して改められなかった、神宗はかつて古今を考証し正典を定めようとしていた、今こそその遺志を継ぐべきだ」と述べた。哲宗が朝章を諮ると、章惇は「北郊は社と呼ぶべき」と述べたが、履は「天子が天地を祀るのを郊というのは神明と交わる義であり、天地ともに郊と称する、詩序にも郊祀天地とある、社は土の神に過ぎず大祗をも社と呼ぶのはおかしい」と論じ、哲宗はこれを容れ郊議が定まった。
  • 尚書右丞を拝す。正言の鄒浩が言事で新州に貶された際、履は「浩は抜擢された恩に応え直言を尽くしただけなのに、陛下が遠く死地に流せば、人臣は皆これを戒めとし誰も陛下の得失を論じなくなる、善地に移すべきだ」と乞い、これに坐して知亳州に罷免された。徽宗立つと資政殿学士兼侍読に召され再び右丞を拝したが1年足らずで退官を求め大学士を加えられ中太一宮を提挙して卒した。