宋史卷三百二十六 列傳第八十五 李渭

出自と経歴

  • 字は師望。その先祖は西河の人、のち河陽に家した。進士から起家し臨頴県主簿となり、累進して太常博士に至った。滑州で河が決した際、天聖初め治河十策を上奏、参知政事魯宗道が河の視察に赴いた際、渭は北作坊副使に転じ張君平と共に修河都監となったが、まもなく両者とも罷免され、渭は鄆州兵馬都監に転じ、知憲州、知鳳州兼階成州鈐轄を歴任した。
  • 属戸の寇が階州沙灘砦を陥落させた際、渭が調査すると都校の趙釗が乱を招いたためと判明、釗を道州に流し恩信で酋帥を諭してその砦を復した。軍器庫副使に遷り原・環・慶三州の知事を歴任。李諮の推薦で益利路兵馬鈐轄・領恵州刺史に転じ、東八作使に遷り、西上閤門使に抜擢され鄜延路に転じ、再遷して四方館使となった。
  • 宝元元年(1038年)、元昊の将の山遇が族を率いて帰順し元昊の反状を告げた際、渭は知州の郭勧と謀ってこれを退けたが、まもなく元昊は果たして反した。渭は勧とともに「元昊の表がなお臣を称しているから徐々に礼で屈服させるべきだ」と上奏、朝廷は当初渭に鄜州の兼知を命じたが、この判断のために尚食使・知汝州に降格され、磁州に転じた。元昊が辺境を犯すと言者はますます渭を罪ありとし、再び右監門衛将軍・白波兵馬都監に降格され、卒した。