宋史卷三百二十六 列傳第八十五 史方

出自と経歴

  • 字は正臣。開封の人。周易学究の試に及第せず、西第二班殿侍に補せられ、再遷して三班奉職・潭澧鼎沿辺同廵検となり、右班殿直閤門祗候に改まった。澧州の民が下渓州蛮に土地を侵されたと訴えた際、駅伝で赴いて調査し、竹疎駅から申文崖まで四百余里の地を回復、掠奪された5百余人を取り戻し、澧州に武口・楊泉・索渓の四砦を置いて賊の要衝を扼した。知鄜州、澧州を経て右侍禁に遷る。
  • 天禧中、下渓州蛮の彭仕漢が辰州を侵し廵検王文慶を殺した際、方は渓洞に兵を進め李順同ら8百余人を捕降し、社忽ら特に悪質な19人を誅した。西頭供奉官・知辰州兼沿辺渓洞都廵検使に遷り、南北江に5砦を修め夔州に転じた。時に富順州蛮の田彦晏が施州を侵し暗利砦を焼いたため、方は兵を率いて富順に直進しその巣穴を蕩し、彦晏を七女柵まで追い詰めて降伏させた。内殿崇班に遷り、内殿承制に改まり契丹への使者を務め、供備庫副使・知環州環慶路兵馬都監となった。
  • 磨媚・浪壴・托校投・新兀二・兀三の六族が内寇した際、方は恩信をもって諭し、伝箭牽羊の礼をもって和を乞わせ、禁兵5千を内地に減らし辺費を省いた。慶州に転じ礼賓使兼環慶路兵馬鈐轄に遷り再び知環州、翌年愛州刺史・益州鈐轄に遷り、秦鳳路に転じ西京作坊使に遷って卒した。