宋史卷三百二十六 列傳第八十五 郭恩

出自と経歴(洪徳城の戦い)

  • 開封の人。はじめ諸班に隷し、左侍禁閤門祗候として延州四路都廵検、環州粛遠砦主を歴任、内殿承制・秦鳳路兵馬都監に累進。古渭州路を開いて前鋒となり首級900余を斬り崇儀副使に抜擢された。掌烏族が叛いた際も兵を率いて討ち首級85を斬り六宅副使に遷り、累労により崇儀使に補せられ秦隴路兵馬鈐轄、并代州鈐轄・管勾麟府軍馬事に転じた。
  • 夏人が毎年屈野河西の池を侵し、耕穫の時期に河西に屯兵して官軍を誘い出そうとするため、経略使の龎籍は常に辺将を戒め河東に兵を斂めて戦わせなかった。嘉祐二年(1057年)、正月から3月まで敵が出屯し続けたのち去り、通判并州の司馬光が辺境を巡り河西の白草平数十里に賊影がないことを確かめた。当時の知麟州の武戡・通判の夏倚は既に候望の堡を一つ築いており、司馬光と「敵の油断を突いて更に2堡を増設し、その地を確保すべきだ、経略使に禁兵3千・役兵5百を増員してもらえば20日で壁塁が完成する。その上で横戎・臨砦の2砦を廃し楼櫓を撤去して甲兵を新堡に移し、烽燧を連ねて警急を通じさせ、衙城紅楼から見下ろせば地の様子は手に取るようにわかる。急があれば州と横陽堡から出兵して救援し、敵が耕作に来れば追い払い、種を蒔けば踏み荒らし、敵が盛んなら堡に籠って避ければ、堡外で敵は耕作できず、州西五、六十里は平穏になろう」と論じた。籍はこの議に従い麟州へ檄を発した。
  • 5月、恩と武戡、走馬承受公事の内侍黄道元らが巡辺と称して視察に赴いた。物見の者が敵兵が沙黍浪に多く屯していると伝えると、恩は出兵を止めようとしたが、道元は怒って言葉で恩を脅し、夜に歩騎6千4百余人(うち半数は甲を着けず)を率い、部伍もなく屈野河北を進んだ。夏人が卧牛峰で烽火を挙げるのを見て武戡が「敵はもう我が軍の来着を知っている」と告げたが、道元は「これはお前たちが我が軍を挫くために言っているのだ」と信じなかった。鼓声を聞いてもなお疑い、忽里堆に至って恩が軍を休ませようとすると道元は衣を振るって「長年郭恩の名を聞いてきたが今日の臆病さは賈逵と何が違うか」と挑発、恩も怒って「死ぬだけのことだ」と言い進軍した。
  • 明け方、忽里堆に着くと敵数十人が西へ逃げ去るように見えたが、実は誘いであった。恩らが胡床に座って呼びかけても敵は応じず、やがて火の手が上がり、敵騎が左右に展開して南北から挟撃、堆の東の塹の梁(断道堰)を挟んで恩らは東側で力戦した。朝から食時まで戦ったが、敵は塹の両側から攀じ登り四面から合撃、恩の軍は大潰した。夏倚は紅楼から敵騎が西山から大挙して下るのを見て、推官劉公弼と城中の諸軍を率い門を閉じて城を守り、武戡は東山に走り城東の門をこじ開けて入った。恩・道元及び府州寧府砦兵馬都監劉慶はみな捕えられ、使臣の死者5人、軍士の死者387人、耳鼻を削がれて帰還できた者は百余人、器甲の喪失も甚大だった。恩は降伏を拒み自殺、同州観察使を贈られ、妻は京兆郡君に封ぜられ、子弟は差をもって録用され、旧俸を2年給された。武戡は軍を棄てた罪で除名され江州に編管とされた。