出自と経歴
- 開封の人。はじめ龍騎に隷し教駿に選ばれたが、掠奪をほしいままにする軍校を殴殺し鼎州に配流、逃げて盗となったのち招かれて龍猛軍に隷し、材武により三班借職・陝西総管司指使に補せられ、しばしば堡砦を攻め落として賊魁の張海・郭邈山を殺し、恩州平定の功で第一等となり如京使・資州刺史に累進、真定府・定州・高陽関・京東西路兵馬鈐轄を歴任した。
- 儂智高が反した際、広東に転じ英州団練使を領した。智高が広州を囲んだとき、洪州駐泊都監の蔡保恭と知英州の蘇緘が兵8千で辺渡村を拠って賊の帰路を扼していたが、忠はこれを奪って統率し、部下に「私は10年前は一介の壮士に過ぎなかったが戦功で団練使になった、お前たちも励め」と言い、単騎で前進、先鋒が賊に遭遇すると自ら賊の将2人を素手で捕えたが、馬が泥濘に陥り身動きできず標槍を受けて死んだ。父の率府副率致仕餘慶は左監門衛大将軍とされ邸宅一区と終身半俸を賜り、母は河内郡夫人に封ぜられ、弟の愿は右班殿直閤門祗候に遷り、子の永夀・永吉・永徳及び娘婿の劉錞ら4人が録用され、長女は清河県君に封ぜられた。