宋史卷三百二十六 列傳第八十五 蒋偕

出自と経歴

  • 字は齊賢。華州鄭県の人。幼くして貧しくも志が高かった。父の病に自ら股を刲いて療治し、父が癒えて理由を問うと「情の感ずるところで、自分でも知らずしていた」と答えた。進士に及第し韶州司理参軍に補せられ、祕書省著作佐郎として大理寺詳断官となった。宻州の豪人王澥が奴に一家4人を殺させた事件で、偕は澥と奴の双方に死刑を主張、宰相陳堯佐が澥を寛大に扱おうとしたが、判審刑院の宋庠と偕はこれに従わず、以て名を知られた。
  • 陝西で用兵が行われた際、しばしば辺事を論じる上書を行い、祕書丞・通判同州に遷り陝西の銭糧を計置、のち沿辺計置青白塩使となる。龎籍・范仲淹の推薦で北作坊副使・環慶路兵馬都監に改まり、汾州・涇州の知事を歴任、原州に転じた。属戸の民を鈔盗する者を数輩腰斬に処し盗を鎮め、北作坊使兼本路鈐轄に遷る。明珠・康奴の諸族がしばしば寇を働いた際、密かに兵を伏せて首4百を斬り酋豪を捕らえ帳落を焼き、馬牛羊千頭を獲た。俘虜を庭下で刳割磔裂させ、座客が食事も摂れなくなる中、偕は談笑して意に介さなかった。
  • 華州兵馬鈐轄に転じ、湖南蛮の唐和が内寇した際は潭州鈐轄に転じ、賊平定後は知忻州、冀州に転じた。私に糧草を率いて降人を得た罪で知霸州に降格、翌年恩州に転じ韶州刺史を領した。兵糧が窮乏した際、朝廷が民の粟入納を募り虚価の券を発行して京師で銭貨に換える「交鈔」の制度を用いたが応じる者が少なく、偕は州倉で入粟を偽装して鈔を発行し属官に京師で貿易させ緡銭を得て軍食を補った。これが御史に弾劾され知坊州に降格。
  • 儂智高が反した際、宮苑使・韶州団練使として広南東西路鈐轄となる。賊が広州を囲む中、偕は17日で城下に馳せ参じたが戦士がまだ集まらぬうちに儂智高が沙頭に移動、安撫使楊畋の檄により糧儲を焼いて韶州に退いたことで潭州駐泊都監に降格、さらに北作坊使・忠州刺史に降格された。命が届く前、賀州太平場で夜に賊が営に侵入し殺害され、武信軍節度観察留後を贈られた。かつて広州入城時、知州の仲簡に「君は兵を留めて自守するのみで賊を襲わず、しかも歩兵を放って平民を殺し首級で恩賞を得ようとした、斬るべきだ」と詰め寄り、簡が「団練使が侍従官を斬ろうというのか」と応じると「諸侯を斬る剣は我が手にある、侍従などと言うか」と答えた逸話がある。結局その軽率さゆえに敗死した。