出自と経歴
- 字は周卿。普州の人。進士から起家し坊州軍事推官に補せられ、のち尚書屯田員外郎・通判慶州として「元昊は臣を称しているが禍心を包蔵している恐れがある、主将を選び士卒を練り城池を修め資糧を蓄えて不虞に備えるべきだ」と上言したが、三度の上疏はいずれも返答を得なかった。まもなく元昊が反したため、辺臣要略二十巻を上呈し、都官・知減州に遷り平戎策十五篇を奏上した。兵を知る者として召対に召され帝の意にかない、左藏庫使・知寧州に改まった。
- 任福が敗れた後、原州に転じた。元昊の10万の軍が二手に分かれ劉璠堡と彭陽城から渭州を攻めた際、葛懐敏が劉璠を援けて崆峒北で敗れ、敵騎が平涼を越え潘原まで迫った。泰は5千の兵で間道から原州に急行し、進まぬ先鋒の左班殿直張廻を斬って軍を進めた。彭陽の西で敵に遭遇し、裨将の夏侯観が彭陽への退却を進言したが泰は許さず、山を頼って布陣。陣形が整う前に敵騎が来襲したが、泰は密かに300騎を左右に分けて旗幟を張り疑兵とし、敵が退こうとするのを将校が追撃しようとしたのを制止、山中を捜索させると果たして伏兵が見つかり、これと戦って首級千余を得た。功により西上閤門使・知鎮戎軍兼兵馬鈐轄となり、のち忠州刺史を領し、秦鳳路馬歩軍総管に転じて卒した。
- 子の思立は熙寧中しばしば戦功を挙げ引進使・忠州防禦使・知河州となったが、董氈の部兵と戦い戦死した。のち思忠が左藏庫副使・遂州駐泊都監として瀘州の夷人を撃った際、羅箇暮山下で陥り、兄弟ともに王事に死んだため人々はその忠義を惜しんだ。