宋史卷三百二十五 列傳第八十四 任福

出自と経歴

  • 字は祐之。その先祖は河東の人、のち開封に移った。咸平中に衛士に補せられ、殿前諸班から遥郡刺史まで累進した。元昊の反乱に際し莫州刺史・嵐石隰州縁辺都廵検使に任じられ、辞去の際「河東は大河に接し斥堠が疎らなので厳しく守備すべきだ」と上奏、仁宗はこれを善しとし知隴州、さらに秦鳳路馬歩軍副総管に抜擢した。陝西の城塁・器械を増強する詔が出た際、40日で戦守の備えをすべて整えた。
  • 忻州団練使・鄜延路副総管として延州東路蕃部事を管掌、まもなく知慶州・環慶路副総管を兼ね、「慶州は蕃族に近いので境上に兵を置き亭堡を巡察し、あわせて山川道路を調べて緩急の攻守に備えたい」と上言、帝は便宜従事を許した。
  • 夏人が保安・鎮戎軍を侵した際、福は子の懐亮・甥婿の成暠とともに華池・鳳川鎮から巡辺と称して諸将を召集して敵の勢いを牽制、柔遠砦で蕃部を犒った席で諸将に白豹城攻撃を命じ、夜明け前に到着し四方から合撃、平明にはこれを陥落させ大掠を行い、巣穴を焼き、牛馬橐駝7千余頭を得た。委聚の広さは40里に及び、平骨咩ら41族を平定した功で龍神衛四廂都指揮使・賀州防禦使を拝し、侍衛馬軍都虞候に改まった。

好水川の戦いと戦死

  • 康定二年(1041年)春、朝廷が涇原・鄜延両路の兵で西討を計画し、福を涇原に召して計事させた。折しも安撫副使の韓琦が巡辺で涇原に赴き、元昊が渭州を狙っていると知った琦は急ぎ鎮戎軍に赴き全兵力を出し、募兵で1万8千を得て福に統率させた。耿傅を参軍事、涇原路駐泊都監の桑懌を先鋒鈐轄、都監の朱観、涇州都監の武英、王珪をそれぞれ福の指揮下に配した。琦は「懐遠城から得勝砦、羊牧隆城へ出て敵の後背を突き、砦間の距離が近く糧道も便利だから、戦えないと判断すれば険を頼んで伏兵を設け敵の帰路を邀撃せよ」と戒めた。
  • 福は軽騎数千で懐遠城の捺龍川へ向かい、鎮戎軍西路巡検の常鼎・劉肅が張家堡で敵と戦い数百人を斬るのに出会った。夏人は馬・羊・橐駝を捨てて偽って敗走し、桑懌がこれを追い、福もそれに続いた。間諜は敵兵は少ないと伝え、福らはこれを侮り、日暮れに桑懌と合流して好水川に屯営、朱観・武英は隔山5里の龍落川に屯し、翌日川口で合流する約束をした。道は遠く糧秣は途切れ、士馬は既に3日食を絶っていた。籠竿城の北まで追撃したところ夏軍が川沿いに進み六盤山下から出て羊牧隆城の5里に布陣、諸将はようやく敵の計略に陥ったことを知ったが、もはや退けず前進して戦った。
  • 桑懌がまず敵の鋒に突入、福の陣がまだ整わぬうちに敵は鉄騎で突撃、辰から午にかけて陣が動揺し、諸将が山を頼ろうとしたところ伏兵が山の背後から現れ、多くの兵士が崖や塹壕に転落して圧死した。桑懌・劉肅は戦死した。敵は数千の兵で官軍の背後を断ち、福は力戦し10余矢を受けた。小校の劉進が福に脱出を勧めたが、福は「我は大将、兵敗れれば死をもって国に報いるのみ」と言い、四刃鉄簡を振るい奮闘、槍が左頬を貫き喉を断って死んだ。
  • 敵は続いて朱観・武英の軍を攻めた。王珪は羊牧隆城から4千の兵を率いて朱観の陣の西に布陣、渭州駐泊都監の趙津も瓦亭の騎兵2千を率いて合流、珪はしばしば陣を出て戦ったが陣は固く破れず、武英は重傷で指揮を執れなくなり、敵兵はさらに増して官軍はついに大潰した。武英・趙津・王珪・耿傅はみな戦死し、内殿崇班の資贇、西頭供奉官の王慶、侍禁の李簡・李禹亨・劉鈞も戦没、軍校の死者は数十人、兵士の死者は6千余人に及んだ。ただ朱観のみが千余の兵で民家の垣を守り四方に矢を放ち、日暮れに敵は引き上げた。福の戦場からは5里離れており、両軍の敗報は互いに伝わらなかったという。福の子の懐亮もこの戦いで死んだ。
  • 元昊が国を挙げて侵攻してきたとき、福は急に出陣を命じられ、統率する兵は平時から慣れ親しんだ部隊ではなく、その上に分進して利を追ったため大敗に至った。報が届くと帝は震え悼み、福に武勝軍節度使兼侍中を贈り、邸宅一区を賜り、その家に月に銭3万・粟麦40斛を給し、母を隴西郡太夫人、妻を琅琊郡夫人に追封、子と従子あわせて6人を録用した。

王珪(任福の部将)――附伝

  • 開封の人。若くして力量抜群で騎射に長じ、鉄杵・鉄鞭を得意とした。19歳で親従官に入り殿前第一班押班に累進、礼賓副使・涇州駐泊都監に抜擢された。康定初め、元昊が鎮戎軍を侵した際、珪は3千騎を率いて策先鋒となり瓦亭から師子堡まで進んだが幾重にも包囲され、奮戦して敵を退け首級を多く獲た。鎮戎城に増兵を求めたが許されず、城中からは糧食を縄で吊り下げられたのみだった。
  • 兵を飽食させた後、部下に「兵法では寡兵で衆を撃つには夕暮れに乗ずるのがよい、我が兵は少ないから暮れを衝いて撃てば勝てる」と語り、再び突入。驍将が白い旗を掲げ槍を構えて挑発し、珪の胸を突いて右腕を傷つけたが、珪は左手の杵でその脳を砕いた。続いてもう一人の将が槍で挑んできたが、珪はその槍を奪い鞭で打ち殺し、敵軍は大いに驚いて退いた。珪自身も馬が矢を受けて戻った。仁宗は使者を遣わして労い、死傷が多かったことから名馬2匹、黄金30両、傷を包む絹100匹を賜り、その功を辺境に布告して諸将を励ました。この年、涇原路都監に改まり、翌年は本路行営都監として金字の処置牌を賜り専断誅殺の権を与えられた。
  • 黒山に至り敵の族帳を焼き払い首級・馬駝を多数獲た。敵の大挙来襲の際は5千の兵で任福に従い好水川に屯し、3日間連戦したが諸将は皆敗れ、任福が包囲された。麾旗がなお立っているのを見た珪は救援に赴こうとしたが、進もうとしない軍校を斬って徇え、東を望んで再拝し「臣が国に背いたのではない、力が及ばぬのだ、ただ死をもって報いるのみ」と言い、再び戦いに入って敵百数十人を殺した。鉄鞭は曲がり手のひらは裂けたが奮戦を続けた。馬は矢を受けて3度乗り換えたがなお駆けて数十人を殺し、ついに目に矢を受けて戻り、その夜に没した。
  • 珪は若くして陰陽数術の学に通じており、出陣にあたり家人に「我はこれまで大小20余戦し敵を多く殺した、今度は戻れぬだろう。私が死んだら速やかにここを去れ、敵の恨みを受けぬように」と語ったが、後に瓦亭が急襲された際、果たしてその通りとなった。鎮戎の戦いで得た2本の槍を山上に立て、後に辺境の人々はその場所に祠を建てた。金州観察使を贈られ、妻は安康郡君に追封、子の光祖は西頭供奉官閤門祗候(のち東上閤門使)、光世は西頭供奉官、光嗣は左侍禁に録用された。

武英(任福の部将)――附伝

  • 字は漢傑。太原の人。父の宻は劉継元に従い宋朝に帰順し侍禁鎮定同廵検に至ったが、契丹との戦いで望都にて戦死、西京左坊使を贈られ、英は三班借職に録用された。右班殿直として忻代州同廵検を務めていたころ、州将が狩りに出て酒宴に興じ、英が「今州が空になった、万一敵が乗じて城に入ったらどうする」と諫めたところ、果たして敵騎百余が侵入し、英は部下を率いて左右から射撃しことごとく捕らえた。
  • その功で左班殿直・監雄州榷場に遷り、右侍禁閤門祗候・環州都廵検使、洪徳砦主、慶州柔遠砦へと転じた。元昊が延州を侵した際、英は後橋を攻めて敵勢を分散させ、内殿承制・環慶路駐泊都監に抜擢され党平族を破り、任福に従い白豹城を破った。礼賓副使に遷り、涇原行営都監を兼ね、任福とともに張家堡で敵と戦い数十百人を斬った。敵が羊馬を棄てて偽って逃げると諸将は先を争って利を追ったが、英は「必ず伏兵がある」と諫めても聞き入れられず、案の定伏兵が起こり福らは敗れた。英はなお力戦し辰から申まで戦い、矢が尽きて討ち死にした。邢州観察使を贈られ、子の永符(三班奉職)は東頭供奉官閤門祗候、永孚は西頭供奉官、永昌は左侍禁、甥の永保は右班殿直、永錫は三班奉職に録用された。

桑懌(任福の先鋒鈐轄)――附伝

  • 開封雍邱の人。人並外れた膂力を持ち剣と鉄簡を得意とし、謀略にも長けていた。人と接するときは常に控えめで自信なさげに見え、口数も少なかったため、初対面ではその勇猛さに気づかれなかった。兄の慥は進士に及第し名を成したが、懌は再度の受験でも落第。大水の際、蓄えた2つの米倉を舟で運び出そうとしたが、避難する百姓を見て米を棄てて彼らを助け、皆を救った。飢饉の年には人々を集めて共に食べ、蓄えが尽きるまで施した。
  • 汝頴の地に移り龍城の廃田数頃を耕して自活。諸県に盗賊が多い中、自ら耆長を志願し、里の悪少年に「盗みはならぬ、私は許さぬ」と戒めた。里の老人夫婦が死に、埋葬前に盗人が衣を盗んだ事件では、疑いをかけた少年の家に夜密かに入りその衣を見つけ、翌日問い詰めて自白させ、共犯者を残らず送検した。
  • 郟城では捕盗に出る尉に同行し、賊の隠れ家で怯む尉を尻目に単身で数人を斬り縛り上げた。襄城では単身十数人の盗賊のもとに赴き数人を殺し残りを縛り、近隣の県から盗賊が消えた。京西転運使がこれを奏上し郟城尉に補せられた。天聖中、河南諸県で盗賊が多発し澠池尉に転じた。青灰山に拠る群盗のうち民害の大きい王伯の捕縛を命じられた懌は、廵検が偽の宣頭を用意して招いたのを知らず単身賊中に入り、伯と10余日寝食を共にした末、山口で廵検の伏兵に捕らえられそうになったが、伯の功を廵検に譲り自らは名乗り出なかった。事実が発覚し廵検は黜けられ、懌は右班殿直・永安県廵検に抜擢された。
  • 明道末、京西の旱蝗の際、悪賊23人の捕縛を命じられると、懌は「盗は我が名を恐れて逃げる、まずは怯えを装うべし」と柵を閉じて一人も出さず、夜に部下と盗人の姿に変装して民家を訪ね歩いた。ある老婆だけが食事を用意してくれ、懌は3日柵を閉じたのち再び訪れ、残り物を老婆に与え続けた。老婆は真の盗人と思い込み、群盗が「桑殿直が来たと聞いて皆逃げたが、営が閉じたままなので恐れるに足りないと油断し戻ってきている、誰それはどこそこにいる」と語る内情を伝えた。懌はさらに3日後に厚く贈り物をして正体を明かし「私は桑殿直だ、事実を調べ決して漏らすな、3日後にまた来る」と告げ、老婆から居所を聞き出して翌日一斉に捕縛、23人を1日で全て捕らえ京師へ送った。
  • 枢密の吏が賄賂を求め閤門祗候への推挙を持ちかけたが、懌は「賂で官を得るのは望むところではない、貧しく銀もないのでできない」と断ったため、吏は怒って功績を隠し、些細な軽い処遇にとどめられた。兵馬監押への任命前に宜州蛮が叛き海上廵検を殺し官軍も制圧できなかったため懌が派遣され、自ら手ずから全て討ち取り、帰還後に閤門祗候を授けられた。懌は「これは私一人の功ではない、上位者もいる。彼が留まり私が戻り、私の賞が厚く彼が軽ければ、功を独占したと疑われよう」と述べ、賞を上位者に譲ろうとした。名声を求めていると謗る者もいたが、懌は「士はただ自らの心に従うべきで、名を避けようとすれば善事もできなくなる」と答え、なお辞退したが許されなかった。
  • 宝元初め、西頭供奉官・広西駐泊都監に遷る。元昊の反乱に際し参知政事の宋庠がその勇略を推挙し、内殿崇班・鄜延路兵馬都監に遷り、翌月には涇原路に転じ鎮戎軍に屯した。任福とともに好水川で敵と遭遇し力戦して死んだ。觧州防禦使を贈られ、子の湜は皇城使となった。

耿傅(任福の参軍)――附伝

  • 字は公弼。河南の人。祖父の昭化は蜀州司戸参軍のとき、城を占拠した賊に官職で懐柔されそうになったが激しく罵り、手足を断たれても屈せず死んだ。傅は若くして俠気を好み、父の蔭で三班奉職から伊陽県尉に転じ、明州司理参軍、将作監丞・知永寧県を歴任した。河南守の宋綬にその才を推薦され通判儀州、慶州に転じた。
  • 西討の議が起きた際、傅は一道の糧饋を督することとなり、元昊の侵攻で任福の行営軍事に参与、敵と姚家川で遭遇し諸将が不利になると敵騎が迫った。武英が傅に退避を勧めると、傅は答えず、英は「私は死ぬべき身だが、君は文吏で軍の責任はない、なぜ共に死のうとするのか」と嘆いたが、朱観も同様に勧めたものの傅はますます前へ出て指揮を続け、数創を受けてついに死んだ。
  • 傅は以前、朱観と籠落川に営した際、夜に福へ宛てた書簡を書き、小勝におごらず、敵の大軍と遭遇すれば持重を旨とすべきと戒め、朱観の名を自ら記してこれを福に届けさせていた。傅の死後、韓琦が随軍孔目官の彭忠からこの書を得て上奏し、傅に右諫議大夫を贈るよう詔された。子の瑗は太常寺太祝、璩は太常寺奉礼郎、璋は将作監主簿、珪は祕書省校書郎試補、琬は同学究出身とされた。

王仲寳(任福配下の将)――附伝

  • 字は噐之。宻州髙宻の人。はじめ刑部の吏となり、齊州章邱尉に補せられ、群盗60余人を捕らえた功で開封府判官の鞠仲謀の推薦を受け召対、右班殿直・鎮定保深永寧天雄六州軍廵検となり、さらに捕盗の功で左班に遷り河北西路提挙捉賊。磁州の名賊王遇仙、博州の孫流油ら合わせて40人を捕らえた。夜に降伏を乞う賊を左右の者が首級目当てに殺そうとしたのを仲寳は許さず、その進言により処罰を止めさせた功で閤門祗候に抜擢された。
  • 駅伝で登州の海賊100余人を捕らえ、河北提挙捉賊に復し、さらに100余人を捕斬、知信安軍を経て再び河北提挙捉賊。西山に拠る盗賊100余人を軍籍に招き入れて自ら率い、沢・潞・晋・絳・慈・隰・威勝軍の廵検使に転じ、赴任わずか8日で太行山の宿賊80人を捕らえた功で金帛緡銭をたびたび賜り、契丹への使者も務め内殿承制に累進した。
  • 天聖初め、知鎮戎軍・供備庫副使として康奴族を破り首領150、羊馬7千を獲た功で表彰された。5年務めた後、恵民河の堤岸を巡護し供備庫使・麟府路兵馬鈐轄・知麟州に遷った。鎮戎軍の蕃族が内寇した際、涇原路鈐轄・知鎮戎軍に転じ、さらに原・環二州、西京左藏庫使・恵州刺史・知利州、并代州鈐轄・西上閤門使を歴任。辺境の博糴に苦しむ羌人が逃亡するのを憂い、法を緩めて復業させるよう建言した。
  • 東上閤門使に遷った後、元昊が延州を侵した際、賀蘭谷まで兵を進めて敵勢を分散させ、蕃将羅逋を長雞嶺で破った功で四方館使・領濮州団練使、涇原路総管安撫副使兼管勾秦鳳路軍馬事となり、西羌と六盤山で戦い数百人を俘馘した。任福が好水川で大敗し、別将の朱観が姚家堡で包囲された際は仲寳が救援して観を脱出させ、諸将が全滅する中で仲寳と観のみが生還した。
  • 環慶路副都総管・知慶州に転じ、まもなく本路経略安撫招討副使を兼ね金湯城を破り再び表彰の詔を受けた。澶州副総管安撫使に転じたが、范仲淹が「仲寳の武幹はまだ衰えていない」と奏して留任を求めた。翌年、磁州防禦使・知代州となり、左屯衛大将軍で致仕、卒した。

史論

元昊が中国の弛緩に乗じて全軍で辺境を侵し、王師が三度にわたり大敗を喫したのは、天の時が悪かったのではなく人の謀りごとの拙さによる。好水川の敗戦で諸将が力戦して死んだのは、利を追って軍令に背いた計略の誤りではあるが、義を守って屈しなかった点はほぼ烈士と呼ぶに値する。