宋史卷三百二十四 列傳第八十三 石普

出自と初任

  • 幽州の人を自称し、唐の河中節度使石雄の後裔と言い、太原に居を移した。父の石通は太宗の晋邸に仕え、石普も10歳から邸に仕えて信頼を得た。寄班祗候から東頭供奉官に累進し、永興の賊邢橐駝・賈禿らを討伐した。
  • 内殿崇班帯御器械として李順の乱で西川行営先鋒となり、韓守英・馬知節と共に討伐した。西京作坊使・欽州刺史として、李順の残党が卭南王を称した際も蜀民の不安を賦斂の緩和で鎮めた。
  • 洛苑使・富州団練使・延州縁辺都巡検使として羌酋乜羽の侵寇を討った。王均の乱では川峡路招安巡検使として雷有終に従い天回鎮で敵を破り、益州の攻城戦で軍砲と地道を用い、富順監で王均を自殺に追い込んだ。冀州団練使に遷り、正任として異例の帯御器械を許された。

伝信牌の献策と辺境防衛

  • 契丹との戦いで保州兵馬鈐轄・北面行営押策先鋒として廉良城・長城口で戦功を挙げた。号令伝達の不備を解消するため、破った銭の半分を持ち合わせて信とする「伝信牌」の制度を提案し、真宗はこれを制度化した。
  • 契丹再侵の際、真宗自ら軍事図を画き諸将の配置を詳細に定めた際、石普は莫州で1万の兵を統率した。以後も禦戎図を献じ、塹壕による防御策を提案した。莫州総管に遷り、後に順安の西に屯し、諸将と掎角の陣を形成した。
  • 内侍馮仁俊との不和では帝が「窮治するな」と収めた。冀州団練使として真宗の澶淵親征時、王継忠の書を仲介し契丹との和議に関与した。容州観察使に遷り、向敏中の鄜延路都総管副となった。

晩年の失脚

  • 趙徳明の帰款に際し、羌の統制権を石普に授けることに反対し止めさせた。并代路での公使銭増額要求は樞密院に拒まれた。桂州観察使・鎮州路総管・保平軍節度観察留後を経て、大流堰を築いて漕運を通した。
  • 符瑞崇拝の風潮の中、天下の醮設を罷めるよう建言し年間7十余万緡を節約させたが、帝の意に逆らった。大中祥符九年、日食の予言や曹瑋への献策を巡り、樞密使王欽若に「辺事を動かそうとしている」と讒せられ、天文私蔵の罪で除名・賀州流罪となった。
  • その後房州安置・左千牛衛将軍・安州徙居・蔡州で私に孔子廟の銭を用いた罪により再度貶され、最終的に大将軍で卒した。倜儻で胆略あり、兵書・陰陽六甲・星暦推歩の術に通じ、太宗にも「剛驁で諸将と合わないが善戦する」と評された。