呉中復(字仲庶)
- 興国永興の人。父の呉仲挙は李煜に仕え、曹彬の平江南で殉節に近い行いをしたが彬の義により助命された。呉中復は進士に及第し知峨眉県では淫祠を廃した。廉潔で代還時に一物も持ち帰らなかった。
- 通判潭州、御史中丞孫抃の推薦で監察御史となり、宰相梁適を弾劾、劉沆をも弾劾し罷免に追い込んだ。李仲昌の六塔河開削を巡る誣告事件の実地調査で冤罪を防いだ。
- 天章閣待制・知江寧府として郵卒の苛酷な鞭刑を改め、成徳軍・成都府・永興軍を歴任した。青苗法施行時には歛散の期を無視した先行実施に抗議し、韓琦の諫言を助けた。熙寧の郡県併合で永康県の存続を主張、関内の大旱に賑恤を請うたが執政に忌まれ削階された。
- 荊南知事として過用公使酒で免官、享年68で卒した。楽易簡約で人の急を救うことを好んだ。
呉擇仁(呉中復の従孫、字智夫)
- 開封雍丘主簿として金水河堤壊の修復を献策、宰相范純仁に器量を見出された。知大鹿県では静鎮策で盗を抑え、宦官譚稹の奴の犯罪を法により処断した。戸部郎中宋喬年の陥穽をものともせず、後に登用された。
- 熙河経略で招討使王厚に従い蘭・廓城栅十三を克ち、京畿都転運使として鄭州城の讒言も克服した。戸部侍郎兼知開封府では旧態依然の態度を戒め、宦官楊戩の匿った盗人を追跡して処罰した。
- 顯謨閣直学士・知熙州、徽猷閣待制・江淮発運を経て、享年66で卒した。