宋史卷三百十九 列傳第七十八 劉敞

出自と経歴

  • 劉敞、字は原父。臨江新喩の人。慶暦の進士試験で廷試第一の実力を示したが、編排官王堯臣が姻戚であったため自ら第二に降格。通判蔡州、直集賢院・判尚書考功として夏竦の諡号「文正」に異議を唱え、「文莊」に改めさせた(諡号決定は有司の職掌で、竦の行いはそれに値しないとした)。
  • 大楽の制定議論に宦官が関与することを批判、権度支判官・三司使として秦州の古渭地を巡る棄守論に「新城を守れば安泰だが険地に固執すれば損害が大きい」と冷静に論じた。温成后追冊への佞人の関与を退けた。
  • 呉充の典礼問題での馮京の弁護を支持、宰相中書の言論排斥を批判し「陛下の寛仁な諫言許容を中書が妨げている」と論じ、天変地異への警戒を促した。同修起居注から一月で知制誥に抜擢、宰相陳執中の妨害にも屈しなかった。
  • 契丹への使者として、山川道程を熟知し、契丹の遠回りの道案内を見破り近道を指摘、駮(伝説の獣)についての博識を示し契丹を感服させた。狄青の樞密使就任時の民衆の熱狂を懸念し、揚州知事として離れることで帝の不安を軽減する助言をした。
  • 揚州の雷塘(漢代の雷坡、元は民田)の官有化の不当を正し、旧券により民に返還。天長県での殺人冤罪事件を親ら糾明し真犯人を暴いた。鄆州知事として治安を回復、旱魃を癒す雨を呼んだという逸話も残る。
  • 樞密院の裁判管轄権を巡り、営卒殺害事件の審理手続きの不備を追及し、詔で制度化させた。嘉祐の祫享・尊号授与に反対する上疏(既に二十年不受のものを今更受けるべきでない)を行い、帝が受け入れた。蜀人龍昌期の異端の書に対する賞賜に反対し撤回させた。
  • 翰林侍読学士として大姓范偉の不正な戸籍冒用事件を摘発。英宗の経筵で史記の堯舜禅譲の故事を用いて婉曲に諷諫し、皇太后にも喜ばれた。眩暈の病を得つつも学問を続け、天文・卜筮・佛老に通じ、彗星や歳星の観測から的中する予言を行ったとされる。
  • 先秦の彝鼎数十点を収集し銘文から三代の制度を考証、朝廷の礼楽の典拠として重用された。文章に優れ、外制起草の速さは追封九人分の制を短時間で仕上げるほどであった。熙寧元年、五十歳で没した。弟は攽、子は奉世。

劉攽(敞の弟)――附伝

  • 字は貢父。兄敞と同年に及第するも二十年地方官を歴任、国子監直講となり欧陽脩・趙槩の推薦で館職に。太祖の祖先祭祀の礼制議論、王安石の経筵座席問題(起立の礼が古来の常礼)などで的確な議論を行った。
  • 開封挙人の試験で同僚と対立し監察御史に弾劾され礼院を罷免。廷試の策問採点で吕恵卿の不公正な採点(阿諛の者を高評価)を覆した。王安石に新法の弊害を訴える書を送り怒りを買い泰州通判に左遷。
  • 曹州知事として重法を用いず寛平な統治で盗賊を抑えた。京東転運使として部下の処分を緩め、呉居厚の後任転運使により旧悪を暴かれ黜けられた。哲宗初、襄州・蔡州を歴任、多くの推薦(孫覚・胡宗愈・蘇軾ら)を受け中書舎人。紫薇閣の再建を建言し、六十七歳で病没。
  • 史学に優れ「漢書刋誤」を著し評価された。司馬光の資治通鑑編纂で漢代史を担当。疎放で威儀を整えなかったが、諧謔で怨みを招くことがあり終生改まらなかった。

劉奉世(攽の子)――附伝

  • 字は仲馮。簡重な性格で法度を重んじ、進士に及第。熙寧三年、樞密院検詳文字として、進奏院の邸報の先行漏洩を防ぐ制度改革を実現し神宗に評価された。集賢校理・中書戸房検正公事を歴任。
  • 相州の獄事で属官の弁明を退け原則に従わせたが、蔡確に文致(曲筆)され罪に問われた。元祐初、度支左司郎中・起居郎・天章閣待制・樞密都承旨・戸部尚書を歴任、樞密直学士として僉書院事。
  • 哲宗親政後、中書舎人呂希純の内侍押班反対を支持。章惇政権下、成都府知事から召還されるも曾布の妨害で光禄少卿に貶され彬州に配流。邢恕の弾劾でさらに隰州団練副使に降格されたが、徽宗即位後に官職を回復、政和三年、七十三歳で薨去。
  • 吏治に優れ、漢書学に精通し、「事君に恥じるところがなければ得喪は常の理」と述べた。