宋史卷三百十九 列傳第七十八 歐陽脩

出自と生い立ち

  • 歐陽脩、字は永叔。廬陵の人。四歳で父を失い、母鄭氏が節を守り自ら教育、貧しく荻の茎で地に字を書いて学んだ。読書は一度で暗誦するほど聡明で、成人時には既に名声があった。
  • 宋興以来百年、文章は五代の華美な駢儷体を踏襲し衰弱していたが、蘇舜元・舜欽・柳開・穆修らが改革を志すも力及ばなかった。脩は随州で唐の韓愈の遺文を発見して心酔し、寝食を忘れて学び、韓愈と並び走ることを志した。

初期の経歴と朋党論

  • 進士に及第(南宮第一)、西京推官として尹洙に古文を学び、梅堯臣と詩を唱和し文名を天下に轟かせた。館閣校勘として、范仲淹の左遷に反対しなかった司諫高若訥を批判する書を送り、坐して夷陵令に左遷された。
  • 慶暦三年、知諫院。杜衍・富弼・韓琦・范仲淹らが要職に就く中、脩も抜擢され帝に重用されたが、小人たちの反発を憂慮した。范仲淹の饒州左遷に際し、脩・尹洙・余靖が仲淹を弁護し「党人」と呼ばれたことを機に「朋党論」を著した。
  • 朋党論の要旨:君子は道を同じくして朋を為し、小人は利を同じくして朋を為す。小人の朋は利益が尽きれば互いに害しあうが、君子の朋は道義・忠信を守り、始終一貫する。紂王には億万の臣がいたが皆心を異にし国を滅ぼし、武王には三千の臣が心を一つにして国を興した。ゆえに為政者は小人の偽りの朋を退け、君子の真の朋を用いるべきである。
  • この論は仁宗の心を動かし、面前で五品の服を賜り「歐陽脩のような人材はどこから来たのか」と称賛された。同修起居注・知制誥を経て、河東に使いし、麟州廃止論に反対し存続させ、忻代岢嵐の禁地開墾を進言し歳数百万斛の収穫を実現、河東の重税十数事を免除した。

河北・地方官としての活躍

  • 保州の兵乱を機に龍図閣直学士河北都転運使。降兵の処刑を巡り、富弼の同時処刑計画に「已に降った者を殺すのは最大の禍、脅従者はなおさら」と諫め、弼を思いとどまらせた。
  • 杜衍らの朋党罷免を批判する上疏を行い、朋党の讒言の構造(善人を一人ずつ排除し、大臣には専権の罪を着せる)を論じ、四人(杜衍・韓琦・范仲淹・富弼)の罷免が敵国を利すると訴えた。この結果、邪党に憎まれ、甥の張氏事件を口実に知制誥から左遷され滁州・揚州・潁州を歴任。
  • 母の喪に服し、判流内銓に復帰(外任十二年)。宦官の姦利者澄汰を求める偽の上奏事件で讒言され同州に出されかけたが呉充の弁護で回避、翰林学士として唐書編纂を命じられ、契丹への使者としても厚遇された。

科挙改革と朝政

  • 嘉祐二年の貢挙で「太学体」と呼ばれる険怪奇渋な文風を排斥し場屋の文風を変えた(一時反発を受けたが後に定着)。龍図閣学士知開封府として、包拯の厳格な統治の後を簡易な統治で治め、群牧使を経て唐書完成後、礼部侍郎兼翰林侍読学士。
  • 黄河決壊対策で賈昌朝の横壠故道回復論と李仲昌の六塔河導入論の対立に対し、脩は「河水は重濁で必ず淤泥が生じ、決壊を繰り返す」として、堤を高め水を海に流す策を提唱したが、結局横壠・六塔いずれも失敗し河北に害を及ぼした。宰相陳執中の遷延を批判する上疏を行った。
  • 狄青の樞密使就任と訛言による動揺を懸念し、地方に出すことを進言。継嗣未定を憂え、漢文帝・唐明宗の故事を引いて早期の立太子を求めた(後の英宗擁立の伏線)。

枢密副使・参知政事として

  • 至和五年樞密副使、六年参知政事。曾公亮と共に天下の兵数・屯戍の実態を調査し辺防の欠を補った。韓琦と協力して財政・人事の要目を整理し中書の効率化を図った。東宮建立の議にも協力(韓琦伝参照)。
  • 英宗の病中、皇太后垂簾の際に生じた嫌隙を、韓琦とともに調停。太后に「温成の寵愛時代でも太后は寛容だったのに、母子の間で今なぜ容れられないのか」と説き、仁宗の遺徳と嗣君への信頼を説いて太后を宥めた。
  • 濮王追崇問題(濮議)で、脩は喪服記を引き「本生の父母は皇伯と改称せず、名を残すべき」と論じ、中書の議は衆論と異なった。太后の手書きにより帝が親を「親」と称することが許されたが、御史呂誨らの弾劾を受け、蔣之奇のみが脩の説に同調し脩の推薦で御史になった。
  • 婦弟薛宗孺の讒言(帷薄不根の謗)が中丞彭思永・蔣之奇を通じ弾劾に発展。神宗が孫思恭に真相を確かめさせ、讒言者が処罰され脩は名誉を回復したが、自ら退官を求め続けた。

晩年と評価

  • 観文殿学士刑部尚書知亳州、兵部尚書知青州、宣徽南院使判太原府(辞退)、蔡州を歴任。青苗銭の散布停止を求めたことで王安石に憎まれ、いっそう帰郷を望んだ。熙寧四年、太子少師で致仕、翌年没した。太子太師を贈られ諡は文忠。
  • 滁州在任中「酔翁」、晩年「六一居士」と号した。剛直で節義を重んじ、放逐を三度受けても志を曲げなかった。夷陵での冤獄の記録を見て「辺境の小邑でさえこうなら天下は推して知るべし」と自戒し、以後の吏事に慎重を期した。
  • 学者には文章より吏事を語り「文章は身を潤すのみ、政事こそ物に及ぶ」と説いた。各地の統治は「寛簡」を旨としつつ「縦・略」ではなく「苛急・繁砕を避ける」ことと定義した。
  • 父の遺した「死罪の獄でも生かす道を求めよ」との訓えを終生守った。曾鞏・王安石・蘇洵父子(軾・轍)ら無名の若者を見出し世に送り出し、朋友の生死に厚く尽くした。金石文の集古録を編纂し、唐書の紀志表を撰し、独力で五代史記を著した(春秋の筆法に倣う)。蘇軾は脩の文を「論大道は韓愈に似、論事は陸贄に似、記事は司馬遷に似、詩賦は李白に似る」と評した。

歐陽發(脩の子)――附伝

  • 字は伯和。胡瑗に学び、古楽鐘律の説を修めた。科挙文詞に走らず、書契以来の君臣世系・制度文物・天文地理を究めた。蔭により将作監主簿、殿中丞に至り四十六歳で没した。蘇軾は「発は父文忠公の学を得た、後漢の蔡邕・西晋の張華のような人物」と哭した。

歐陽棐(脩の子)――附伝

  • 字は叔弼。博覧強記で文才があり、十三歳で父の「鳴蟬賦」を見て感嘆され「お前もこの賦を作れるか」と父に問われた逸話がある。蔭により祕書省正字、進士乙科。父の遺表を代筆し神宗が「父自らの作かと思った」と評した。
  • 職方員外郎知襄州として、曾布の姻戚魏泰の不法な土地占有(「天荒地」の詐称)を退けた。蔡州知事として重税・覆折の弊害から民を守るため詔を即座に施行させた。党籍に連座し十余年廃されて没した。

史論

三代以降、秦漢を経て文章は時勢と共に盛衰したが、その言葉には常に先王の遺風があった。晋魏を経て弊風に陥り、唐の韓愈がこれを振興、唐の文は五代を経てまた弊風に陥り、宋の欧陽脩がこれを再興した。両者の力により、正しい文の気風が大道を助け人心を支えることができた。ただ韓愈は用いられずに終わり、脩は用いられた点で、世道のために惜しむべきは韓愈の不遇である。