宋史卷三百十八 列傳第七十七 胡宿
出自と経歴
- 字は武平。常州晋陵の人。進士に及第、揚子尉として大水の際、民間船を動員し数千人を救った。館閣校勘・集賢校理・通判宣州として、殺人事件を精査し婦人の共犯を暴いた。
- 湖州知事として、前任滕宗諒の学校興隆費の疑惑を晴らし、石塘百里を築いて水害を防いだ(「胡公塘」と呼ばれた)。両浙転運使、修起居注知制誥。宮中の変での内侍楊懐敏の処分見送りに反対し詞頭を封還した。
- 慶暦六年の地震を機に陰陽五行説から兖州・登萊の地震の因を分析し、金坑の乱掘が地気を乱していると警告、翌年王則の貝州反乱で的中したとされた。皇祐五年の会霊宮火災・大旱を機に、天地並配の郊祀を見直すよう建言し、古制の迭配に戻した。
- 士大夫の致仕年齢問題では武吏・文吏で扱いを分け、皇祐新楽と旧楽の並用、貢挙の三年制を進言し実現。唐介の左遷での道中死を懸念し、追還を実現。翰林学士知審官院として、李仲昌の六塔河開削失敗を厳罰にすべきと主張。
- 兖国公主降嫁の礼制を巡り漢明帝の故事を引いて慎重論を唱えた。涇州の卒の給与遅配問題で三司の責任を追及、包拯の対応の不備を指摘。并州の節鎮復活に反対し軍事的合理性を説いたが後に復活した。
- 樞密副使として、雄州知事趙滋の界河での禁令の厳格化を憂え、南北の和好の維持を英宗に説いた。治平三年、観文殿学士知杭州、翌年太子少師で致仕を前に、七十二歳で薨去。太子太傅を贈られ諡は文恭。
- 清謹忠実な性格で、内剛外和、事に慎重で発言は覆らなかった。詳議官の同僚の反対を押し切り正しい進言をした逸話や、化金術を伝授しようとした僧との交流の逸話が残る。
胡宗炎(宿の子)――附伝
- 字は彦聖。鎖庁登第、大宗正丞・開封府推官・考功吏部郎中を歴任。選人の京官改任における審査制度の改善を進言。哲宗崩御に伴う遼の弔祭使を鴻臚少卿として応対し、礼を尽くして遼側を服させた。潁昌府・密州を知り没した。詩才に優れ、欧陽脩にも評価された。
胡宗愈(宿の従子)――附伝
- 字は完夫。進士甲科に及第、光禄丞。英宗に「子弟の中で最も継げる者」と評され集賢校理・史館検討・同知諫院。禁城での盗難事件で内都知の監督責任を追及、殿帥の私的な部隊編成を批判。李定の御史起用に反対し王安石に疎まれ通判真州に左遷。蘇頌・李大臨の弁護でも安石と対立。
- 元祐初、起居郎・中書舎人・給事中・御史中丞。役法改定を巡り「差法と募法を混同すべきでない」と主張。朋党の弊害について「君子は義に比す」と論じた。尚書右丞となったが王覿らの弾劾を受け資政殿学士知陳州・成都府に転出、蜀の民に慕われた。禮部尚書・吏部を経て六十六歳で没した。
胡宗回(宗愈の族)――附伝
- 字は醇夫。蔭により登第、編修敇令官・司農寺幹当公事・京西転運判官などを歴任。紹聖初、直龍図閣知桂州、平民死罪事件で降格されたが、青唐の反乱鎮圧に功があり熙河の統治を担った。
- 部将王贍・孫路の対立を調停し、青唐(鄯州)・邈川(湟州)の平定に成功したが、その後の郎阿章の乱で部将种朴らを急がせ、朴が戦死する結果を招いた。転運判官秦希甫の湟鄯放棄論に反対し、堅守論を貫いたが、後に徽宗が鄯州を放棄した際、任伯雨の弾劾で職を奪われた。慶州・渭州・陳州・澶州を歴任、兄宗愈の党籍連座で一時罷免されたが、堅守論の功で秦州知事に復帰。大観中に没した。銀青光禄大夫を贈られた。
- 胡氏一族は宿より始まり、宗愈の代まで代々執政を輩出、子孫は侍従九卿に至る者十数人を数え、晋陵の名族となった。
史論(張昇・趙槩・胡宿らについて)
張昇は清忠諒直、趙槩は雅量があり、胡宿は天人の学に通じ、いずれも磊落な良執政であった。宗愈は右丞にまで至ったが学術は父宿に及ばない。宗回は辺将の器ではなく、湟河の守備論は种朴を死に追いやったことへの弁明とも見られる。胡氏一族の隆盛は万人を水難から救った陰徳の致すところかもしれない。