宋史卷三百十八 列傳第七十七 王拱辰

出自と経歴

  • 字は君貺。開封咸平の人。もと拱夀という名で十九歳で進士第一。仁宗に改名を賜った。懐州通判、直集賢院、鹽鐵判官、修起居注、知制誥、慶暦元年翰林学士。
  • 契丹使劉六符の塘濼撤去要求に対し「兵事は詭道、彼が本気で言うはずがない」と喝破、闗南十県の要求にも太宗の伐燕の故事を引いて理を尽くした返書を作成し、契丹を納得させた。
  • 開封府権知・御史中丞として、夏竦の樞密使就任を無功を理由に批判、滕宗諒の処分軽減にも反対。僧紹宗の鋳仏事件で軍費の浪費を批判、蘇舜欽の進奏院事件で王益柔らを弾劾し、杜衍・范仲淹の一派を退けたが、これにより公議から批判を浴びた。
  • 翰林学士権三司使として鄭旭事件に連座し鄭州などに左遷、後に学士承旨兼侍読。契丹使としての厚遇(混同江の垂釣・侍宴)を趙抃に「北使が先例に援用する」と批判された。湖南転運判官李章の不正事件で連座し宣徽北院使を解かれた。
  • 大名府知事・吏部尚書を歴任。神宗即位後、王安石に嫌われ応天府に出された。保甲法の弊害(民の疲弊・盗賊の増加)を強く諫言し、五等戸の免除を実現させた。哲宗立、彰徳軍節度使に転じ七十四歳で薨去。開府儀同三司を贈られ諡は懿恪。

史論(張方平・王拱辰について)

方平・拱辰の才は共に人に卓越したが、司馬光・趙抃の批判を免れなかった。ただ新法施行時、方平が痛烈にその弊を論じ拱辰が保甲を切諫したことは、いずれも老成の重みを示した。方平が科挙審査で王安石を見抜き先見の明を示したことは呂誨に劣らない。