出自と経歴
- 張方平、字は安道。南京の人。若くして聡明、貧しく人から書を借り旬日で暗誦したという。茂材異等に及第、崐山県知事、賢良方正選に及第、著作佐郎・通判睦州を歴任。
- 趙元昊の反乱に際し、挑発に乗らず時を稼ぎ、その間に将士を鍛え城を固めるべきと論じ、平戎十策を上疏。延渭の守りを固め河東に兵を屯し敵の要地を突く戦略を提言、宰相呂夷簡に評価された。仁宗の召試を「既に策制科に及第しているのに再試は不要」と免除された。
- 直集賢院・知諫院として、樞密の職を中書に合わせるべきと進言、宰相の樞密使兼任が実現。宣毅保捷の徴兵に反対したが聞かれず、後に烏合の軍と化したことで正しさが証明された。夏竦の西師指揮の失敗(豊州陥落・劉平ら敗死)を弾劾し免職させ、四路の帥臣に各自の裁量を与えるよう求めた。
- 元昊との和議に際し、郊祀の赦を機に信を示すべきと進言、帝はこれを容れ慶暦と改元、元昊は帰順した。契丹への使者として修起居注、契丹主に厚遇された。開封府権知として煩雑な府務を巧みに処理、翰林学士に進んだ。
- 元昊臣従後の契丹との紛争に際し「新附の小羌を得るために強敵を失うのは得策でない」と封冊の慎重な運用を進言。御史中丞・三司使として、王拱辰の河北再榷塩策を批判し撤回させた。宮中の衛士の変を機に張貴妃を尊異する動きに対し、漢の馮偼伃の故事を引いて皇后を軽んじる措置を諫め、陳執中を通じて阻止した。
- 財政簡素化のため祥符以来の姑息な制度改革を批判する長文の上疏を行い、取士・任子・磨勘の弊害、大商豪民の茶塩香礬専売の乱れを指摘。楊儀の事件に連座し滁州に出されたが、江寧府・流内銓判官・益州知事を歴任。儂智高の南詔侵攻の噂を機とした過剰な軍備動員を「妄言」と断じ、流言の発信者を処罰し蜀を鎮めた。
- 三司使に復帰、両蜀の横賦四十万を免除し鑄鉄銭を削減。国家の要衝陳留の防衛と汴河の水運維持のため十四策を上疏し、富弼が「国計の大本」と評した。秦州知事として夏の動静に備え、無用な出兵批判を退けた。
- 英宗の代、礼部尚書・学士承旨として立太子の詔書起草に際し「頴王が嫡長で賢」と直言、力を尽くして書かせた。神宗即位後、山陵費の削減を進言し、費用を七、八割削減した。参知政事となったが王安石の登用に反対、父の喪に服し観文殿学士留守西京。
- 陳州知事として新法の害(「民は水、覆舟の恐れあり」)を陛辞の場で論じた。宣徽北院使として王安石に妨害され青州赴任を止められた。祖宗の御戎策(太祖・太宗・真宗の辺境政策)を帝に説き、近年の辺臣の冒険主義を戒めた。契丹使蕭禧との交渉で樞密使呉充に助言し円滑に処理させた。
- 銅禁緩和による銭の消耗を批判、応天府知事として髙麗使の送迎の礼を巡り抗議。安南征討に反対し「西北の壮士・良馬を炎荒に費やす愚」を説いた。新法による祠廟(閼伯・微子廟)の売却に強く抗議し、天下の祠廟の保護を実現。太子少師で致仕、哲宗即位後太子太保。元祐六年、八十五歳で薨去。諡は「文定」(本人は諡を求めなかったが蘇轍の請いで贈られた)。
- 慷慨な気節の人で、致仕後も論事は切実を極めた。蘇洵父子(軾・轍)を高く評価し、軾の獄事にも抗章して助けた。晩年、王安石の専横に屈せず一時の人望を集めた。