宋史卷三百十七 列傳第七十六 錢惟演
出自と経歴
- 字は希聖。呉越王俶の子。父に従い朝に帰し右屯衛将軍・右神武軍将軍を歴任。学士院の試験で笏に起草し即座に文を成し真宗に賞賛された。太僕少卿として咸平聖政録を献じ、冊府元亀の編纂で楊億と序を分担執筆。
- 尚書司封郎中知制誥、給事中、翰林学士を歴任するも私謁事件で罷免、後に復職。樞密副使、会霊観使を経て工部尚書。仁宗即位後、王曽が宰相となったのは惟演より上位であったためとされ、樞密使に任じられた際、慣例の検校官を付されなかった不遇を経験。
- 丁謂の勢に付き、寇準の失脚に加担したが、丁謂失脚後は自らの関与を隠すため寇準を陥れたことを暴露して身を守った。宰相馮拯に外戚の姻戚関係(劉美の妹婿)を理由に機政から排除され、鎮国軍節度観察留後・保大軍節度使知河陽に左遷。天聖七年、武勝軍節度使を経て泰寧軍節度使。太后の崩御に際し荘献明肅太后・荘懿太后を真宗廟室に配することを求めたが、外戚との婚姻画策も絡み、御史中丞范諷の弾劾で崇信軍節度使に左遷され没した。
- 死後の諡号を巡り、文でも墨(貪汚)でもなく「思」と改められ、最終的に「文僖」と定まった。文辞に優れ楊億・劉筠と並び称され、書物の収集家としても知られた。真宗の諡号に「武」を加えるべきと進言し、澶淵の盟の武功も評価された。典懿集三十巻ほか著作多数。
錢曖・晦・暄(惟演の子)――附伝
- 曖・晦・暄は惟演の子。晦は字を明叔といい、大理評事として献穆大長公主の女を娶り、東上閤門使を経て貴州団練使。宦官の朝会席次を巡る儀礼問題で慣例を守るよう進言。忠州防禦使・知河中府を経て卒。暄は字を載陽といい、父の蔭で駕部郎中知撫州・台州、堤防を築き民を洪水から守った。少府監権塩鉄副使として両浙転運使の逋租弾劾を諫め、飢饉下の重課を避けさせた。光禄卿知鄆州で卒。
錢易(惟演の従弟)――出自と経歴
- 字は希白。父倧が呉越王を廃された後、易は読書に専念。兄昆とともに進士に及第、易は十七歳で崇政殿の試験を一日で完了させた。蘇易簡が太宗に「今の進士銭易の詩は李白に劣らない」と評したという逸話がある。
- 開封府試で二位となったことに不満を持ち上書したが、内容が諷刺と見なされ第三位に降格。濠州団練推官、光禄寺丞、蘄州通判として上疏し、酷刑の廃止を訴え、帝に受け入れられた。景徳中、賢良方正科に及第、秘書丞・直集賢院を歴任し東封泰山・祀汾陰に随行、多くの著述を献じた。
- 尚書祠部員外郎として国子監諸科の人選の不正を理由に潁州税に降格されたが、後に召還され三司磨勘司の煩雑な会計監査を改善する提言を行った。知制誥・登聞鼓院・在京刑獄を歴任し翰林学士として在職中に没した。仁宗は妻の盛氏を宮中に召し冠帔を賜った。
- 才学に優れ、書も達者で、仏典にも通じ「殺生戒」を著した。金閨瀛州西垣制集ほか多数の著作がある。子の彦遠・明逸は共に賢良方正科に登第し、銭氏一家で父子兄弟が制策に登科したのは宋興以来この一家のみであった。
錢彦遠(易の子)――附伝
- 字は子高。父の蔭で太廟斎郎、進士に及第、御史台推直官・太常博士を経て賢良方正能直言極諫科に登第。地震・旱害の頻発を機に、契丹・西夏・湖広蛮獠の三方の脅威に対応する長久の計を上疏した。常平倉の放出で飢饉対応、右司諫として頻繁な赦免や牧守の増俸を求めた。
- 起居舍人・知諫院として大水の兆を天譴として警告、農本重視の政策(勧農司の設置)を提言。宦官の不正(楊懐敏・黎用信ら)を弾劾し多くが受け入れられた。豪邁な性格で言職を全うし在官のまま没した。
錢明逸(易の子)――附伝
- 字は子飛。制科に及第、呂夷簡に評価され右正言として范仲淹・富弼の改革を批判し朋党の弊害を訴えた。石元孫の戦没後の生還・不当な褒賞を批判し正しい処罰を求めた。同修起居注・知制誥・知諫院・翰林学士を歴任。開封府知事として自称皇子の冷青事件を裁いたが、獄吏の不手際で罷免された。
- 蔡州・揚州・青州・鄆州・曹州・応天府を歴任、渭州知事として于闐の朝貢問題や唃厮囉との紛争を処理した。神宗即位後、傾険の性質を御史に非難され罷免、永興軍知事を経て熙寧四年、五十七歳で没した。禮部尚書を贈られ諡は脩懿。
錢藻(明逸の従子)――附伝
- 幼くして孤児となり刻苦して学問に励み進士に及第、賢良方正科にも及第。祕閣校理として慈聖太后の臨朝に上書。同修起居注・知制誥・開封府知事を歴任し、簡静で条理を守る政治を行った。翰林侍読学士を経て六十一歳で没した。
錢景諶(景臻の従兄)――附伝
- 進士に及第。王安石にその文才を認められ師事したが、青苗法・助役法の弊害を率直に指摘し、峡路・戎瀘の軍事に関する任用も辞退。安石の怒りを買ったが、義利の是非を説く姿勢を貫き、後に地方官を歴任して没した。
錢勰(彦遠の子)――附伝
- 字は穆父。幼少より聡明で、王安石の科挙改革の影響で及第の機会を逃すも、蔭により地方官を歴任。神宗の官制改革時、左司郎中に任じられた。高麗への弔使として、贈物を辞退する清廉さを示した。中書舎人・給事中・開封府知事として、老獪な吏の欺瞞を見破る敏腕を発揮。翰林学士承旨として章惇に嫌われ地方に出され、六十四歳で没した。
錢即(呉越王の孫)――附伝
- 字は中道。進士に及第、睦州推官として冤罪を晴らした。陝西転運判官・慶州知事・延安府知事を歴任し、童貫の均糴法の弊害を批判し永州団練副使に左遷されたが、後に復職。宣州知事として軍需に応じ、老年で致仕、忠定の諡を贈られた。
史論
郷挙から廷試まで全て首席であった者はわずか三人(王曽・宋庠・馮京)で、いずれも名宰相・名執政となり風節も科名にふさわしい。邵亢の礼制への造詣、邵必の史書編纂への謙虚な辞退は名言というべきである。銭惟演は敏才で知られたが柄用を急ぎ阿附して名節を失った。銭氏三代の制科登第者のうち、易は軽俊、明逸は傾険と評され、時論の惜しむところであった。