宋史卷三百十七 列傳第七十六 邵亢

出自と経歴

  • 邵亢、字は興宗。丹陽の人。幼くして聡明で、十歳で一日五千言を暗誦し詩賦をよくした。開封の試験で第一とされるべきところ賦の押韻の誤りで落選。范仲淹が茂才異等として推薦し、崇政殿の試験で唯一及第、建康軍節度推官となった。宰相張士遜の姻家として選ばれたとの噂があったが、亢自身は弁明しなかった。
  • 趙元昊の反乱に際し、用兵は将の選定にあるとし、儒臣に軍務は務まらず、恩倖の子弟や老将では対応できないと論じ、兵説十篇を献じた。頴州団練推官として、陳蔡の税の折緡銭増徴に反対し民の負担軽減を図った。
  • 国子監直講・館閣校勘・同知太常礼院を歴任。張貴妃の薨去に伴う楽の禁止措置の長期化を批判し撤回させた。仁宗の継嗣未定を憂え、外患は覊縻策で足りるが内患(継嗣問題)は早期に定めるべきと論じた。開封県鎮公事の提点として、放火犯を出した家の連座を制限する法改正を求めた。
  • 度支判官として、契丹の弔問使を巡る儀礼問題を機転で処理。頴王府翊善として英宗に世事を諮問され「学士は真の国器」と称された。頴王の婚礼に古礼を用いること、公主降嫁の礼を進言し、直史館・知制誥・知諫院を歴任。
  • 神宗即位後、垂簾の議を建言したとの讒言を受けたが自ら弁明し追及を求め、帝は不問とした。開封府知事として吏の煩雑な訴訟処理を効率化し治安を回復。樞密副使として、夏人の楊定殺害を機とした西討論に対し、財力の疲弊を理由に反対し、降意の撫納策を進言、詔にこれが容れられた。夏主諒祚の死後、機に乗じて塞門の地を奪うことにも反対した。
  • 陳升之の後任として長安に出される話を諫官孫覚が漏らし、帝の怒りを買った孫覚が黜けられる一方、亢自身も資政殿学士知越州に転出。鄭・鄆・亳三州を歴任し、六十一歳で薨去。吏部尚書を贈られ、諡は安簡。

邵必(亢の従父)――附伝

  • 字は不疑。進士に及第、上元主簿。国子監の石経建立に篆隷の技量で貢献。唐書編修官への就任を「史は衆手に出るもので古の撰述の体でない」と辞退。集賢校理・同知太常礼院として天子親祭の礼を尚書省に改めさせ、張貴妃冊礼を巡る命婦の礼の議論に判断を示した。知常州・開封府推官を経て、常州在任中の杖刑致死事件で監邵武税に降格されたが、実際には死に至っていなかったと判明。高郵軍知事、京西転運使として厳格な統治を行い、雄州知事のとき契丹による界河での漁猟侵犯を理路で退けた。知諫院、仁宗御集の編纂を経て権三司使・龍図閣学士知成都、赴任途上六十四歳で没した。