宋史卷三百十六 列傳第七十五 唐介
出自と経歴
- 字は子方。江陵の人。父拱の死に際し州人が貧を憐れみ醵金したが、幼い介はこれを謝絶した。武陵尉、平江令として、誣告による殺人祭祀事件を裁定し無実を証明した。莫州任邱県の知事として遼使往来の駅の不当な徴発を禁じた。塘水の氾濫対策で堤を築き民益を図った。徳州通判として転運使崔嶧の不正取引を退けた。
- 監察御史裏行・殿中侍御史として、龍鳳車の贅沢な装飾を批判、張堯佐の宣徽・景霊・羣牧の四使兼帯に反対、宰相文彦博の贈賄疑惑も弾劾し、仁宗の怒りを買い春州別駕に左遷された。梅堯臣・李師中らが詩でその直言を称え、「唐子方」の名で正義の御史として知られた。
- 殿中侍御史に復帰し、遷謫中も私書を送らなかったことを仁宗に評価された。開封府判官、江東転運使を経て度支副使、天章閣待制知諫院。淵黙な仁宗に君臣の交わりの活性化を求め、宮禁の恩沢乱発の抑制、監司の選任基準厳格化、走馬承受の廃止、兗国公主の禁門違反の取締りを進言し受け入れられた。
- 御史中丞韓絳の富弼弾劾を巡り、危法での中傷を批判し絳を罷免させた。荊南知事、開封府権知を経て、龍図閣直学士河北都転運使、瀛州知事。治平元年、御史中丞に召され、英宗に「祖宗の遺徳に学べば天下が福を得る」と進言。太原府知事として夏人の築塁を撤去させた。
- 神宗即位後、三司使、参知政事。王安石の登用を巡り「文学・吏事・経術いずれも安石には難がある」と諫めたが用いられず、以後安石と度々論争、劄子の乱発を批判し太祖・太宗の故事を引いて中書の権限を守った。憤りから背に疽を発し薨去。年六十。剛直な性格で人望が篤かったが、安石に抑えられ功績は少なかったと評される。神宗は哀悼し、礼部尚書を贈り諡は質粛。
唐淑問(介の子)――附伝
- 字は士憲。進士に及第、殿中丞から監察御史裏行。神宗の初政に対し中旨の乱発を戒め、詔書の実行を求める上疏を行った。河北の飢饉対策で穀物放出の継続を主張。滕甫の非を論じ「邀名」と誤解されたが、父の縁を避け通判復州。新法反対で信陽軍に左遷され、後に宣州・湖州知事、吏部員外郎。哲宗即位後、左司諫に召されるも病により致仕。
唐義問(介の子)――附伝
- 字は士宣。文辞に優れ、京西転運司管勾文字を経て神宗に文才を評価され湖南転運判官、免役銭の弊害を是正した。文彦博の推薦を辞退し、陝西の亡卒問題を給券政策で解決。斉州知事、京東提点刑獄、河北転運副使として冤罪を晴らし、渠陽の廃棄を巡る楊晟秀の反乱を平定した。広州知事のとき章惇政権により罪を問われ舒州団練副使に貶されたが、後に復官し頴昌府知事で没した。
唐恕(義問の子)――附伝
- 崇寧初、華陽令として茶法に従わず罷免。弟意方も南陵令を病で辞し、兄弟で門を閉ざし躬耕。靖康元年、御史中丞許翰の推薦で監察御史に任じられたが、貧しさのため赴任できず江陵山中で餓死した。
史論
包拯の開封統治は厳明で今なお称えられるが、苛刻を尊ばず忠厚を根本とした点は孔子の言う「剛」に通じる。呉奎は博学清重の君子であった。趙抃は至る所で善政を敷き古の遺愛を思わせ、唐介の敢言は天下を動かし古の遺直というべきである。聴諫は明君にも難しく、唐の太宗すら魏徴を最後まで容れられなかったが、四臣の面諫の激烈さを仁宗が咎めなかったのは盛徳の証である。屼の孝、淑問の進みがたさ、義問の強敏、恕の高行はいずれも家名を損なわず美とするに足る。