出自と経歴
- 字は持国。進士に及第するも父億が輔政中のため大廷での試験を辞退、蔭により官についた。父没後は門を閉ざして仕えず、学問を好み静退を保つ人物として推薦されたが召試を辞退。富弼の幕府に招かれ史館修撰、欧陽脩の推薦で検討・知太常礼院となった。
- 禘祫の儀礼をめぐり議論し、温成后の廟楽制定に反対、陳執中の諡号議論でも慎重論を唱えた。頴王(後の神宗)の記室参軍として仕え、天下事を論じて称賛された。頴王の妃選びに際し慎重な人選を進言。
- 英宗の代、館閣久任者や進士高第者を用いるべきとの議論に対し、帝は「必ずしも高科に限らない」と応じ、維が抜擢された。侍講として経筵の重要性を説き、濮議で処分された御史呂誨らの復職を求め、台諫の権限保護を主張した。
- 神宗即位後、皇太子の職掌の代行を戒め、御史中丞王陶の弾劾(韓琦を跋扈と非難)を巡り是々非々を論じた。僖祖の廟の存廃論争では、太祖の功業により宋の正統は太祖にあるとしつつ、僖祖の廟も従来通り存続すべきと主張、王安石と対立した。
- 開封府知事として保甲法に反対、翰林学士承旨のとき旱魃対策として青苗銭の強制取立ての緩和や減税を上疏、詔により求直言の詔書起草を命じられた。王安石罷免時、兄絳が入相したのに伴い河陽知事などを歴任。
- 神宗崩御に際し宣仁太后に施政の要諦(利民・憂民・去労困・蠲禁令)を説いた。夏国主秉常への出兵停止を進言し、旧仁宗朝の忠勲者への褒賞(范鎮ら)を求めた。
- 元祐の役法改定を担当、司馬光に「小人の議論に迎合するな」と忠告。王安石の新経義の廃止論には反対し、先儒の説と並存させるべきと主張し評価された。門下侍郎として御史張舜民の罷免を巡る事件に関与、讒言により分司南京に左遷されたが、王存の弁護で大学士知鄧州に復した。
- 兄絳の願いで汝州に移り、太子少傅で致仕、少師に転じた。紹聖中、元祐党人として左遷され崇信軍節度副使・均州安置となったが、子の官爵返上を条件に哲宗の許しを得た。元符元年に朝議大夫に復し、その年八十二歳で没。徽宗初、旧官を追復された。