宋史卷三百十五 列傳第七十四 韓絳

出自と経歴

  • 字は子華。進士甲科に及第、通判陳州直集賢院・開封府推官。冷青という男が「掖庭で生まれた皇族」と偽称した事件を、絳は宮中への影響を懸念し徹底追及、事の真相(宮中で仕えた母が民に嫁いで生んだ子)を暴き死刑とした。
  • 戸部判官として江南の飢饉に対処、宣州守廖詢の不法を摘発。仁宗に「言を過激にせず朝廷の大体を保て」と諭され、内侍の兼判に反対するなど直言を続けた。道士趙清貺の不正事件で宰相龎籍を批判し、諫言の職を解かれたが、後に知制誥・判流内銓。
  • 黄河決壊で李仲昌の六塔河開削策が失敗した際、宣撫河北として仲昌の罪を弾劾し流罪とした。瀛州知事から翰林学士・御史中丞。帝の求嗣祈願に際し宮人の削減や内臣養子の制限を進言し実現させた。真定守呂溱の不法を巡る同僚の請願を退け、法の公平を主張。張茂実の禁兵掌握に反対し、一時弾劾を控えたが後に復帰。
  • 慶州知事として熟羌の乱を平定、成都府知事として張詠以来の専売制度の弊害(豪商の利権化)を是正。三司使として川陝の職田穀の運用を改善し、内諸司吏の恩沢乱発に抵抗した。
  • 神宗即位後、枢密副使から拝相(同中書門下平章事・昭文館大学士)、王安石の新法を支持し推進した。熙寧三年、陝西宣撫使として西夏との紛争に対処するため出征、种諤の横山攻略策を支持したが、蕃兵の統制に失敗し反乱・城の陥落を招いて更迭、鄧州知事に降格。
  • その後大名府などを経て再び宰相となったが、呂恵卿との対立が続き、王安石の再登用を密かに図った。ところが安石と再び対立し辞任を求め、許州・定州・河南府などを歴任。哲宗即位後、鎮江軍節度使・開府儀同三司・康国公。北京留守として黄河治水策の失敗を予見し工事を中止させた。元祐二年致仕、翌年没、年七十七。太傅を贈られ諡は献粛。
  • 果断で人望があり司馬光を推薦したが、王安石与党とみなされ清議の評価は低かった。子の宗師は父の縁で官途につき、王安石に度支判官として推薦され、集賢殿修撰・知河中府に至った。孝行で知られた。