出自と経歴
- 韓億、字は宗魏。先祖は真定霊寿の人で、開封の雍丘に移り住んだ。進士に及第し、大理評事として永城県の知県となり治績で知られ、他県で解決できない訴訟は郡守の皇甫選がしばしば億に処理を委ねた。
- 陳州の通判のとき、黄河が決壊し堤の修築費が万を数えたが、億は民から徴収せずに工事を行った。真宗が試験に召そうとしたが、王旦と姻戚関係にあったため特別に召見のみで一官を進め、洋州の知州とした。
- 洋州の豪族李甲は、兄の死後に嫂を再嫁させようとし、甥を他姓と偽って財産を独占しようとした。嫂が訴えたが、甲は役人に賄賂を贈り自白を強要させ、十余年訴えが絶えなかった。億は旧記録を調べ、乳母や医師の証言を欠いていたことに気づき、甲を呼び出して証拠を示すと、甲は反論できず冤罪が晴れた。
- 尚書屯田員外郎に累進し、相州を知る。河北で旱害があったが転運使が実情を報告しなかったため、億は独自に凶作を訴えて民の租税免除を願い出た。誣告を受け通判大名府に降格されたが、殿中侍御史から侍御史に転じ、淮浙を安撫し、開封府判官を経て河北転運使となった。
- 仁宗の初め、直史館・知青州となり、司封員外郎兼侍御史知雑事のとき、大理寺丞の呉植が臨江軍知事のとき賄賂を受けた事件を糾明。宰相王欽若への贈賄も暴いたが、詔により不問とされた。三司の茶法改定の際、歳課未達を理由に丞相以下を弾劾し、恐れず職務を全うした。薛奎以後、独り台務を掌握して一年を超えた。
- 龍図閣待制として契丹に使いし、副使が皇太后の意向を勝手に契丹に伝えたが、億は関与せず、契丹主に問われても率直に答え、契丹主を喜ばせた。世間は副使の失言を億の功に帰したが、億はそれを謙譲した。
- 益州知事のとき、大旱に際し例年の倍の官粟を放出して民を救い、灌漑水路を開いて数千頃の田を潤した。茂州の蕃部が永康の官場で馬を売買するのを、両川偵察の恐れありとして黎州境に移させた。御史中丞として唐制にならい御史裏行の設置を請うた。
- 景祐二年、尚書工部侍郎同知枢密院事のとき、太平が久しく武備が緩んでいたため、二府に将帥の人材を推薦させることを求めた。武臣に兵法を学ばせるための書の編纂も進言し、帝は神武秘略を編ませ辺臣に賜った。唃厮囉と趙元昊の抗争に朝廷が唃厮囉への加賞を議した際、億は蕃臣同士の争いに介入すべきでないと諫めて議を止めた。元昊の使者の京師往来についても、館舎を設け礼遇しつつ実質的に監視する策を進言した。
- 開封府知事の范仲淹が百官図を献じ宰相呂夷簡の人事を批判、密かに億を推薦したが、仲淹が左遷された後、帝が億に問うと、億は「仲淹は公のために推薦し、私に頼まれたことはない」と答え、戸部参知政事となった。忻州の地震を機に諫官の韓琦が宰相王隨・陳堯佐を批判、また億の子綜が羣牧判官である不当も指摘したため、億は罷免され知応天府となった。その後資政殿学士・知成徳軍、澶州・亳州を経て尚書左丞に至り、太子少傅で致仕。没後、太子太保を贈られ諡は忠献。
- 億は方正謹厳な性格で、家を厳しく治め、親族・旧知の貧窮者には冠婚葬祭を援助した。官吏の些細な過失を摘発する風潮を嫌い、「太平の世でも人を追い詰めるのか」と述べた。
- 八子(綱・綜・絳・繹・維・縝・緯・緬)あり、この篇では綱・綜・絳・維・縝を記す。
韓綱(億の子)――附伝
- 尚書水部員外郎として慶暦中に光化軍を知り、性急で士卒を統率できなかった。盗賊張海の侵攻の際、城への物資運搬で民を犒わず、逆に羊豚を徴発して兵器製造費に充てたため士卒が激怒。軍校を処罰しようとして反乱を招き、賊は城を焼き払い蜀道へ向かい官軍に敗れた。綱は城を捨てた罪で除名され英州に編管された。
韓綜(億の子)――附伝
- 字は仲文。蔭補で将作監主簿となり、大理評事を経て進士に及第。通判鄧州天雄軍のとき黄河決壊で丘塚に避難する民を救い、集賢校理に抜擢され契丹への使者を務めた。父億の旧縁を語ると契丹主が喜び、酒宴で歓待された。
- 陳執中に疎まれ滑州・許州に出された。殿前指揮使許懐徳の姪の遺産をめぐる不正に関与した罪で集賢校理を奪われ、袁州知事に左遷。その後江東転運使、刑部員外郎知制誥に至り没した。契丹の館伴使として、契丹の国号使用を拒む使者を論破した逸話がある。子の宗道は戸部侍郎・宝文閣待制に至った。
韓綱の子・宗彦――附伝
- 字は欽聖。進士甲科に及第、集賢校理・提点京西京東刑獄などを歴任。応天府の誤判事件を糾し、仁宗の後継未定を憂えて上書し、胎養の令の整備を進言した。尚書兵部員外郎判三司塩鉄勾院で没した。